美術学校も賞も無縁——竹久夢二はそれでも大正ロマンを作った

竹久夢二が描いた女性像(1921年)。梅の枝の下でうつむく姿は、典型的な「夢二式美人」です
竹久夢二が描いた女性像(1921年)。梅の枝の下でうつむく姿は、典型的な「夢二式美人」です

「大正ロマン」という言葉は知っている。でも、どんなものかと聞かれると答えに詰まる。そんな人は多いはずです。手がかりは一枚の顔にあります。首をかしげ、どこか遠くを見る、憂いを帯びた女性の絵。「夢二式美人」と呼ばれるあの顔なら、雑貨や文具の上で、たぶん一度は見ています。

描いたのは竹久夢二。美術学校を出ておらず、展覧会で賞を取ったこともない画家です。それでも大正の若者は、夢二の描く女性に夢中になりました。東京・日本橋に開いた小さな店には、若い女性が押しかけたと伝えられます。画壇の外にいた男が、なぜ時代の気分そのものになれたのか。日本橋の小さな店に、答えの半分があります。

「夢二式美人」は、なぜうつむいているのか

椅子にもたれる女性(1918年)。ほお杖もつかず、ただ視線だけをそらす
椅子にもたれる女性(1918年)。ほお杖もつかず、ただ視線だけをそらす

夢二の描く女性には、共通点があります。

大きな瞳。細い首。ゆるくかしいだ姿勢。そして視線は、こちらを向いていません。うつむくか、横を向くか、遠くのどこかを見ています。

それまでの美人画は、違いました。浮世絵以来の美人画は、整った顔を「見せる」絵です。ところが夢二の女性は、見られていることに気づいていないような顔をしています。何かを思い出している途中、誰かを待っている途中。絵の外に、物語の続きがある顔です。

この「途中」の表情が、夢二式美人の核心でした。

きれいな人を描いた絵は、それまでにも山ほどあります。夢二が描いたのは、きれいな人ではなく「切ない時間」でした。恋の絵とも失恋の絵とも書いていないのに、見る人が勝手に自分の恋を思い出す。大正の少女たちが熱狂した理由は、そこにあります。

では、この絵をどこで覚えたのか。学校ではありません。

美術学校ゼロで画壇の外へ——夢二はどこで絵を覚えたのか

夢二は1884年、岡山の生まれです。

家を出て東京に向かい、働きながら絵を独学しました。デビューの場は展覧会ではなく、新聞や雑誌の片隅。記事のわきに添える小さなカット、当時の言葉で「コマ絵」です。

印刷されて、安く売られ、誰の手にも届く絵。夢二の出発点は最初から、額縁の中ではなく紙の上にありました。

1909年に出した『夢二画集 春の巻』は、若い読者をつかんで版を重ねます。美術学校も師匠も持たない20代の青年が、画壇を通らずに、読者から直接支持された。当時としては異例の道です。

私はここが、夢二のいちばん現代的なところだと思います。権威に認められてから世に出るのではなく、作品を直接届けて人気を得る。今のイラストレーターやSNSの絵描きと、ほとんど同じ立ち方です。

その立ち方は、やがて「絵を描く」の枠を越えていきます。

楽譜の表紙から千代紙まで——「日本のグラフィックデザイナーの先駆け」と呼ばれる理由

雑誌『コドモノクニ』1922年12月号に描いた「手つなぎ」。山を囲んで子どもたちが輪になる、見開きのデザイン
雑誌『コドモノクニ』1922年12月号に描いた「手つなぎ」。山を囲んで子どもたちが輪になる、見開きのデザイン

冒頭の店に戻ります。

1914年、日本橋に開いた「港屋絵草紙店」。千代紙、封筒、絵葉書、手ぬぐい、半襟。夢二は暮らしの中の紙や布を、まるごとデザインしました。絵を額に入れて飾るのではなく、絵のある品を持ち歩いてもらう。今でいうデザイン雑貨の店です。

もう一つの主戦場が、楽譜でした。

セノオ楽譜という出版社の楽譜表紙を、夢二は数多く手がけています。歌のイメージを一枚の絵にして、文字のレイアウトまで含めて仕上げる。レコードがまだ高価だった時代、楽譜は音楽を家に持ち帰る手段でした。その表紙は、今のCDジャケットやアルバムアートと同じ役割です。

子ども向け雑誌『コドモノクニ』では、挿絵と誌面づくりに関わりました。上の「手つなぎ」を見てください。絵と歌詞の文字が、見開き全体で一つの画面になっています。

絵画、装丁、広告、雑貨、誌面。ジャンルの区別なく「紙の上のデザイン」を横断したから、夢二は「日本のグラフィックデザイナーの先駆け」と呼ばれます。

描くだけではありません。夢二は、書く人でもありました。

詩「宵待草」——歌になった夢二と、大正ロマンの正体

夢二には、全国で歌われた詩があります。

「宵待草」。待っても来ない人を、月見草に重ねた短い詩です。夢二自身の、旅先での実らなかった恋から生まれたと伝えられます。曲がつけられると大流行し、絵を知らない人まで夢二の言葉を口ずさみました。

絵は切なく、詩も切ない。夢二の世界は、和服の女性に洋風の椅子や帽子が混ざる、和洋折衷の世界でもあります。着物にレース、三味線の隣に西洋の花。

この「切なさ」と「和洋の混ざり」こそ、後の人が「大正ロマン」という言葉で思い浮かべるものでした。

大正ロマンという雰囲気を、夢二が一人で作ったわけではありません。ただ、その雰囲気を絵にすると夢二式美人になり、詩にすると宵待草になる。時代の気分に、顔と言葉を与えた人でした。

人気の絶頂は、しかし長くは続きません。

最後の放浪——アメリカからヨーロッパへ、そして49歳の山の上

外遊中、船上の竹久夢二(1932年)
外遊中、船上の竹久夢二(1932年)

昭和に入ると、時代の空気が変わります。

関東大震災で東京の風景は一変し、流行の主役はモダンガールと新しいデザインに移っていきました。夢二の名前は、少しずつ「一世代前の人」になっていきます。

1931年、夢二は日本を離れました。

アメリカに渡り、絵を売り、講習会を開きながら各地を移動します。さらにヨーロッパへ渡り、ベルリンなどに滞在しました。若いころから住まいと恋を転々とした人ですが、晩年の旅はそのまま放浪でした。

異国での暮らしは実り多いものとは言えず、体をこわして帰国します。診断は結核でした。長野県の富士見高原の療養所に入り、1934年に亡くなります。

49歳でした。

50歳を目前にした死は早すぎます。ただ、夢二の絵は本人よりずっと長生きしました。展覧会は今も繰り返し開かれ、雑貨や文具のデザインとしても生き続けています。没後70年をはるかに過ぎ、作品はパブリックドメインとして誰でも自由に見られるようになりました。

よくある質問

Q. 「夢二式美人」とはどういう意味ですか?
竹久夢二が描いた女性像の呼び名です。大きな瞳、細い首、かしいだ姿勢、憂いのある伏し目が特徴で、当時の若い女性の憧れになりました。特定の一枚ではなく、夢二の女性画全体を指す言葉です。

Q. 夢二の作品はどこで見られますか?
故郷の岡山に夢二郷土美術館、東京・弥生に竹久夢二美術館、群馬の伊香保に竹久夢二伊香保記念館があります。開館日や展示内容は各館の公式サイトで最新情報を確認してください。没後70年を過ぎているため、ネット上のパブリックドメイン画像でも多くの作品を見られます。

Q. 代表作はどれですか?
黒い猫を抱く女性を描いた「黒船屋」が最もよく知られています。ほかに詩「宵待草」、セノオ楽譜の表紙群、『コドモノクニ』の挿絵など、絵画とデザインの両方に代表作があります。

まとめ:うつむく瞳は、今日も紙の上にいる

  • 夢二式美人の核心は「顔の美しさ」ではなく、絵の外に続きを感じさせる「切ない時間」
  • 美術学校にも画壇にも属さず、印刷物を通じて読者から直接支持された
  • 楽譜表紙・千代紙・雑誌まで手がけ、日本のグラフィックデザイナーの先駆けと呼ばれる
  • 詩「宵待草」と和洋折衷の画風で、「大正ロマン」の気分に顔と言葉を与えた
  • 晩年はアメリカとヨーロッパを放浪し、帰国後、49歳で世を去った

今日やることは一つ。「竹久夢二 楽譜表紙」で画像検索して、気に入った一枚を探してください。100年前の日本橋の店先で少女たちがしていたことを、あなたは画面の上でそのまま繰り返すことになります。

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