歌川国芳は江戸でいちばんふざけた絵師である——猫、巨大骸骨、幕府への当てこすり

歌川国芳『相馬の古内裏』1840年代、大判三枚続。巨大な骸骨が御簾を破って現れる
歌川国芳『相馬の古内裏』1840年代、大判三枚続。巨大な骸骨が御簾を破って現れる

浮世絵と聞いて、何を思い浮かべますか。

富士山、波、きれいな役者、しとやかな美人。どれも正しいですが、正直に言えば「上品で、少し退屈」という印象もあるはずです。

その印象を、一枚で壊す絵師がいます。

歌川国芳。三枚続きの画面いっぱいに、家より大きな骸骨を描いた人です。猫を五十三匹並べて東海道の宿場の名をもじり、人間の体を寄せ集めて一つの顔を作り、幕府に叱られて絵を引っ込めたこともあります。江戸の町人が「かっこいい」と「くだらない」を同時に楽しんでいた証拠が、国芳の絵には全部残っています。

まずは、上の骸骨から。

巨大骸骨は、なぜ骨の数まで正しいのか——『相馬の古内裏』

『相馬の古内裏(そうまのふるだいり)』は、山東京伝の読本を絵にした作品です。

平将門の娘・滝夜叉姫が、荒れ果てた御所で妖術を使い、骸骨の化け物を呼び出す場面。原作では等身大の骸骨が何体も現れます。国芳はそれを、一体の巨大な骸骨にまとめました。三枚の紙をつないだ横長の画面に、御簾を破って身を乗り出す骨の怪物。左端の武士が小さく見えます。

見どころは、骨の描き方です。

頭蓋骨の縫い目、肋骨のカーブ、指の関節。おおまかな「お化けの骨」ではなく、骨格として筋が通っています。国芳は西洋の解剖学の図を参考にしたと考えられており、化け物に科学の裏づけがある。ふざけた題材を、本気の技術で描く。国芳のやり方は、ここに集約されています。

ただ、この絵師は最初から売れていたわけではありません。

30歳まで鳴かず飛ばず——国芳を救った『水滸伝』の豪傑たち

国芳は1797年、江戸の染物屋の息子に生まれました。

15歳で歌川豊国の門に入ります。同門には、のちに役者絵で天下を取る国貞がいました。国貞はすぐに売れ、国芳はなかなか注文が来ない。20代は、ほとんど無名のまま過ぎます。

転機は30歳ごろ。中国の小説『水滸伝』の豪傑を、一人ずつ描いた揃い物でした。

全身に入れ墨を彫った男が、大刀を振るう。筋肉と刺青と武器が画面から飛び出す迫力で、江戸の若者はこの絵に飛びつきました。この揃い物が流行してから、江戸で刺青を入れる人が増えたと伝えられます。「武者絵の国芳」の名が定着したのは、この時からです。

強い男を描く力で売れた絵師が、次に取り憑かれたのは、猫でした。

猫を懐に入れて描いた絵師——『猫飼好五十三疋』の遊び

歌川国芳『猫飼好五十三疋』1840年代。東海道五十三次の宿場名を、猫の仕草でもじった
歌川国芳『猫飼好五十三疋』1840年代。東海道五十三次の宿場名を、猫の仕草でもじった

国芳は無類の猫好きでした。

仕事場に何匹も猫を飼い、猫を懐に入れたまま筆を握っていたと弟子が伝えています。死んだ猫には戒名をつけ、仏壇に位牌を置いた。この話はどこまで本当か確かめようがありませんが、絵を見れば、猫の体を知り尽くした人の線であることは疑いようがありません。

『猫飼好五十三疋(みょうかいこうごじゅうさんびき)』は、その猫好きが生んだ遊びです。

広重で有名な東海道五十三次。その宿場の名前を、猫の仕草でもじりました。日本橋は「二本だし」、二本のかつお節を前にした猫です。宿場ごとに一匹か数匹の猫が、寝たり、じゃれたり、魚をくわえたり。53の駄洒落を、53のポーズで描き分けた。私は初めてこの絵を見たとき、猫の絵というより、猫の姿で描いた言葉遊びの辞典だと思いました。

猫だけでは終わりません。国芳の遊びは、人間そのものに向かいます。

人間を寄せ集めて顔を作る——「寄せ絵」というだまし絵

『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』という絵があります。

読み方は「見かけは怖いが、とんだいい人だ」。遠目には、ふんどし姿のいかつい男の顔。近づくと、その顔が何人もの裸の男たちで組み立てられています。眉は人の腕、鼻は背中、口ひげは足。一人ひとりが、ぎゅうぎゅうに組み合わさって一つの顔になっている。

「寄せ絵」と呼ばれるだまし絵です。

タイトルまで含めて、ひとつの笑いになっています。人が集まって「いい人」を作る。当時の江戸っ子は、この絵を見て声を出して笑ったはずです。

ここまでなら、国芳は「面白い絵師」で終わります。ところが同じ時期、彼はもっと危ない笑いに踏み込みました。

幕府に叱られた妖怪絵——『源頼光公館土蜘作妖怪図』の当てこすり

歌川国芳『源頼光公館土蜘作妖怪図』1843年。病床の頼光の背後に、土蜘蛛と妖怪の群れが現れる
歌川国芳『源頼光公館土蜘作妖怪図』1843年。病床の頼光の背後に、土蜘蛛と妖怪の群れが現れる

1840年代はじめ、幕府は「天保の改革」で町人の贅沢を取り締まりました。

役者絵や遊女の絵は禁止。芝居小屋は移転させられ、寄席は減らされ、浮世絵の版元は仕事を失います。絵師にとっては、飯の種を奪われた時代でした。

そこで国芳が出した一枚が『源頼光公館土蜘作妖怪図』です。

表向きは、武将・源頼光が病に伏し、妖怪の土蜘蛛が襲ってくるという昔ながらの物語。ところが江戸の人々は、この絵をまったく別の絵として読みました。病気の頼光は将軍、そばで碁を打つ四天王は改革を進める老中たち、そして背後に湧き出す妖怪の群れは、改革で取り締まられた人々の恨みそのもの。

絵の中に「改革の当てこすりだ」と言葉で書いた箇所はどこにもありません。それでも噂は江戸中に広まり、絵は飛ぶように売れ、騒ぎになった版元は絵を引っ込めたと伝えられます。国芳が処罰されたかどうかは、はっきりした記録がありません。ただ、この一枚が「絵で権力を笑う」やり方の見本になったことは確かです。

役者の絵が禁止されるなら、役者の顔を落書き風に描く。国芳は『荷宝蔵壁のむだ書き』という揃い物で、蔵の壁に描かれた子どもの落書きという体裁で、人気役者の顔を描きました。禁止を、笑いですり抜けたのです。

弟子たちが継いだもの——月岡芳年、河鍋暁斎、そして現代へ

国芳は1861年、64歳で亡くなりました。

門下からは、明治の「最後の浮世絵師」と呼ばれる月岡芳年、奇抜な戯画で知られる河鍋暁斎が出ています。骸骨、妖怪、笑い、社会への目。国芳が一人で抱えていたものを、弟子たちは一つずつ持ち帰りました。

20世紀の後半になって、国芳は日本でも海外でも大きな展覧会が繰り返される絵師になります。理由は単純です。骸骨は今見ても怖く、猫は今見てもかわいく、当てこすりは今見ても痛快だから。

よくある質問

Q. 国芳の絵はどこで見られますか?
浮世絵は光に弱く、常設で長期間展示されることが少ないため、企画展で見るのが基本です。東京や各地の美術館でたびたび国芳展が開かれています。開催情報は各館の公式サイトで最新情報を確認してください。

Q. 国芳と広重、北斎はどう違いますか?
北斎と広重は風景画で名を上げた絵師です。国芳は武者絵、戯画、猫、妖怪といった「人と生き物」の絵が中心で、笑いと社会風刺が持ち味です。三人は同じ時代の江戸で活動していました。

まとめ:ふざけることは、本気でなければできない

  • 『相馬の古内裏』の巨大骸骨は、解剖学の知識に裏づけられた本気の化け物
  • 30歳ごろの『水滸伝』シリーズで「武者絵の国芳」として遅い出世をした
  • 猫を懐に入れて描き、『猫飼好五十三疋』で53の駄洒落を猫のポーズにした
  • 天保の改革の時代に、妖怪絵と落書き風の役者絵で禁止令をすり抜けた
  • 弟子の芳年・暁斎に、骸骨と笑いと社会への目が受け継がれた

「上品で少し退屈」だった浮世絵は、国芳を知ると別の顔になります。見かけは怖いが、とんだいい人だ。あの寄せ絵のタイトルは、国芳という絵師そのものの説明です。

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