マネ『オランピア』はなぜパリを怒らせたのか?裸婦を天井近くに掛け直した1865年のサロン

裸の女性の絵は、19世紀のパリでは珍しくありませんでした。
毎年開かれる官展「サロン」には、女神や妖精の名前をつけた裸婦が何十枚も並びました。上品な客が、家族連れで眺める絵です。裸そのものは、問題ではなかった。
ところが1865年のサロンで、一枚の裸婦の前に人だかりができ、罵声が飛び、絵は会期の途中で天井近くの高い位置に掛け直されました。杖や傘で突かれるのを避けるためだったと伝えられます。
マネの『オランピア』。上の絵です。
女神ではありません。ベッドに横たわり、こちらをまっすぐ見ている。首にリボン、髪に蘭の花、片方だけ脱げかけたスリッパ。足元には黒い猫。パリの人々はこの絵を見て、これが誰なのかを一目で理解しました。だから怒ったのです。
『オランピア』の女性は誰か——名前と猫とリボンが告げていること
オランピアという名前は、当時のパリで娼婦がよく名乗る名でした。
黒人の召使いが抱えている花束は、客からの贈り物。首の黒いリボンと腕輪、片方だけ足に引っかかったスリッパは、服を脱いだ途中を示します。足元の黒猫は、しっぽを立てて、目を光らせている。伝統的な絵なら、ここには忠実さの印である犬がいる場所です。
つまりこの絵は、女神の顔をした裸婦ではなく、高級娼婦を、娼婦として描いた絵でした。
さらに、視線です。それまでの裸婦は、目を伏せるか、遠くを見るか、眠っていました。見る側が安心して眺められるように。オランピアは、こちらを見ています。値踏みするように、少し退屈そうに。絵を見に来た紳士たちは、自分が客として見返されていることに気づいたはずです。
批評家たちは口をきわめて罵りました。「黄色い腹のオダリスク」「トランプの女王」。中でも「トランプの絵のようだ」という批判は、この絵の別の革命に気づいていました。
「トランプの絵のようだ」——影を消したマネの平面

上の絵を見てください。ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』です。
横たわる裸婦、こちらを見る視線、足元の犬、奥の召使い。構図は『オランピア』とほぼ同じです。マネは若いころフィレンツェでこの絵を模写しており、『オランピア』は300年以上前の名画の、意図的な描き直しでした。
では何が違うのか。影です。
ティツィアーノの肌は、光と影がなめらかに移り変わり、丸みを帯びています。マネの肌は、明るい部分がべったりと平らで、影は輪郭に沿って一気に暗くなる。立体感を出すための中間の影を、マネはほとんど省きました。だから「トランプの絵のようだ」と言われた。
私は、この批判はそのまま褒め言葉になると思います。
絵は窓ではなく、絵の具を塗った平らな板だ。そのことを隠さない絵を、マネは描きました。後の印象派も、セザンヌも、20世紀の抽象絵画も、この「平らな板」の考え方から出発しています。マネが近代絵画の父と呼ばれる理由は、娼婦を描いたからではなく、影を消したからです。
そしてこの騒ぎは、マネにとって2度目でした。
2年前にも騒がせていた——『草上の昼食』と落選者たちの展覧会

1863年、『オランピア』と同じ年に描かれた『草上の昼食』です。
森の中で、服を着た男二人と、裸の女が一人、ピクニックをしている。この絵はサロンに落選しました。その年は落選作があまりに多く、皇帝ナポレオン3世の命令で「落選者展」が開かれます。そこで『草上の昼食』は、笑いものになりながら、いちばん人を集めた絵になりました。
裸の女性のモデルは、ヴィクトリーヌ・ムーラン。『オランピア』と同じ人です。
赤毛の、小柄な、当時18歳前後の職業モデル。『オランピア』の視線は、彼女の目です。ムーランはのちに自分でも絵を描き、サロンに入選しています。マネの絵の中で「見られる側」だった女性が、見る側に回ったことは、あまり知られていません。
2年連続で騒ぎの中心になったマネは、では変わり者の反逆児だったのか。
マネは反逆児ではなかった——サロンに固執した紳士

上の肖像画のマネは、シルクハットに手袋、杖を持った紳士です。
裕福な家に生まれ、身なりに気を配り、カフェで友人と談笑する社交家。反逆を気取る人ではありませんでした。むしろサロンでの成功を、生涯望み続けています。落選しても、罵られても、翌年もまたサロンに出す。仲間の印象派が独自の展覧会を始めても、マネは一度も参加しませんでした。
騒がれたかったのではなく、認められたかった。それが叶わない絵を描いてしまう人でした。
擁護者もいました。作家エミール・ゾラは1866年、新聞でマネを激しく弁護し、「ルーヴルに入る画家だ」と書きます。詩人ボードレールも友人でした。時代の先頭にいる書き手たちは、マネの絵が何をしたかを見抜いていました。
死後、モネが動いた——『オランピア』がルーヴルに入るまで
マネは1883年、51歳で亡くなりました。
『オランピア』は売れないまま、アトリエに残っていました。この絵をアメリカの収集家が買おうとしているという話を聞き、動いたのはクロード・モネです。1889年から翌年にかけて、モネは画家仲間や作家に呼びかけて寄付を募り、絵を買い取って国に寄贈しました。フランスの絵はフランスに残す。かつて笑いものだった絵のために、印象派の巨匠が奔走した形です。
それでも絵は、しばらくルーヴルには入れませんでした。
国立の別の美術館に置かれ、ルーヴルに移ったのは1907年。政治家クレマンソーの後押しがあったと伝えられます。天井近くに追いやられた裸婦が、フランスでいちばん格の高い美術館の壁に掛かるまで、42年かかりました。今はオルセー美術館で、正面の高さで人を見返しています。
よくある質問
Q. 『オランピア』はどこで見られますか?
パリのオルセー美術館が所蔵しています。『草上の昼食』も同じ美術館です。展示室の変更や貸し出しがあるため、訪問前に公式サイトで最新情報を確認してください。
Q. マネは印象派ですか?
印象派の画家たちと親しく、彼らに大きな刺激を与えましたが、印象派展には一度も出品していません。本人はサロンでの評価を求め続けました。近代絵画の出発点として、印象派の「先輩」と位置づけられることが多いです。
Q. 『草上の昼食』はなぜ問題になったのですか?
神話の場面ではなく、現代のパリの男たちと、服を着ていない現実の女性を同じ画面に置いたためです。裸婦そのものではなく「言い訳のない裸」が非難されました。
まとめ:見返してくる裸婦
- 1865年のサロンで『オランピア』は罵声を浴び、天井近くに掛け直された
- 女神ではなく高級娼婦を、客を見返す視線で描いたことが人々を怒らせた
- 構図はティツィアーノの名画の描き直し。中間の影を消し、絵を「平らな板」として見せた
- 2年前の『草上の昼食』も落選者展で騒ぎに。モデルは同じヴィクトリーヌ・ムーラン
- マネはサロンでの成功を望み続けた紳士で、死後はモネの募金で絵が国に入った
天井近くに追いやられた理由は、裸だったからではありません。見返してきたからです。次にこの絵の前に立ったら、視線を先にそらすのがどちらか、試してみてください。
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