『ポッピンを吹く娘』の口元を見る——喜多川歌麿が江戸の女の顔を「主役」にするまで

喜多川歌麿『婦女人相十品 ポッピンを吹く娘』寛政年間、メトロポリタン美術館
喜多川歌麿『婦女人相十品 ポッピンを吹く娘』寛政年間、メトロポリタン美術館

手鎖50日。

1804年、江戸の町奉行所が一人の絵師に下した刑です。両手に鉄の手錠をかけられ、50日間、家から出られない。絵師の名は喜多川歌麿。50代に入ったばかりでした。

罪状は、豊臣秀吉を描いたこと。

その2年後、歌麿は亡くなります。江戸でいちばん女の顔を描いた絵師の最期は、手錠から始まりました。

ただ、見てほしいのは最期ではなく、最初です。上の一枚、『ポッピンを吹く娘』。市松模様の着物の娘が、ガラスの玩具を口にくわえている。この口元に、歌麿がやった発明が全部入っています。

顔だけを大きく描く、という発明

『ポッピンを吹く娘』は、人物の上半身しか描かれていません。

ポッピンは、ガラスの底を息で震わせて「ぽっぴん」と音を鳴らす江戸の玩具です。娘はそれをくわえ、息を吹いている。唇は玩具の口をつまんで少しすぼまり、目は横を向く。背景はない。着物の柄と、髪の飾りと、この顔だけ。

この形式を「大首絵」と呼びます。

それまで美人画は、立ち姿の全身を描くのが普通でした。顔を大きく描くやり方は役者絵で先に使われていて、歌麿はそれを女性に持ち込んだ。役者は名前で買われる。では、名もない町の娘の顔を大きく描いて、誰が買うのか。

買われました。しかも飛ぶように。

歌麿の大首絵は1790年代の初め、寛政のころに次々と出ます。『婦女人相十品』『婦人相学十躰』という連作の題は、人相学の本のような言い回しです。娘の性格や暮らしを、顔の表情ひとつで見せる、という宣言でした。ポッピンを吹く娘は、そのうちの一枚です。

この絵のもう一つの仕掛けは、背景にあります。

背景を光らせた男——雲母摺と蔦屋重三郎

歌麿の大首絵の多くは、背景がきらきら光ります。

雲母の粉を糊に混ぜて刷る「雲母摺」という技法です。光の当たり方で銀色に、あるいは灰色に見える。人物の輪郭だけがその上に浮かび、余計なものが何もない。今のブロマイド写真の白い背景と同じ発想が、200年以上前にありました。

この贅沢な刷りを可能にしたのが、版元の蔦屋重三郎です。

蔦重と呼ばれた出版人で、吉原の案内書から出発し、狂歌本、絵本、そして浮世絵で江戸一番の版元になった人物です。歌麿を若いころから抱え、自宅に住まわせていた時期もあると伝えられます。後に東洲斎写楽の役者絵を世に出したのも、この蔦重でした。

絵師と版元は、二人で一つでした。

雲母を惜しまず使う版元がいたから、歌麿は顔だけの絵を描けた。ところが、二人が最初に組んだのは、美人画ではありません。

虫と貝と鳥を描いた狂歌絵本の時代

喜多川歌麿『画本虫撰』1788年、メトロポリタン美術館。左下にケラ、右にハサミムシ
喜多川歌麿『画本虫撰』1788年、メトロポリタン美術館。左下にケラ、右にハサミムシ

『画本虫撰』は、1788年に蔦重が出した狂歌絵本です。

見開きごとに植物と虫が描かれ、そこに狂歌が添えられている。上の図は、竹の子の根元にケラ、枝にハサミムシ。虫の脚の一本一本、羽の筋まで描かれています。歌麿は美人画の前に、こういう博物図鑑のような仕事をしていました。

狂歌は、当時の武士や町人が集まって作った、洒落の効いた短歌です。

その仲間内で回す豪華本に、歌麿の絵がつく。売り物というより、趣味人の贈り物でした。続いて貝を描いた『潮干のつと』、鳥を描いた『百千鳥』が出ます。線の細さと、対象を見つめる根気は、この時期に鍛えられました。

私は、この虫の絵を見てから美人画を見ると、歌麿の目が同じだと感じます。

ハサミムシの脚を見つめた目で、娘の唇の形を見つめている。美人画の顔が、様式ではなく観察になっているのはそのためです。そして観察の対象は、やがて実在の娘に向かいました。

『当時三美人』は名前入りのブロマイドだった

喜多川歌麿『当時三美人』寛政年間
喜多川歌麿『当時三美人』寛政年間

『当時三美人』には、3人の実在の女性が描かれています。

上が芸者の富本豊雛、右下が水茶屋の看板娘の難波屋おきた、左下が煎餅屋の娘の高島おひさ。3人とも当時の江戸で評判の美人で、店には彼女たちを見に客が押しかけました。絵の中では、着物の紋で誰が誰かわかるようになっています。

つまり、これはアイドルのブロマイドです。

名前と顔と店がわかる。買った人は、その店に行けば本人に会える。歌麿の美人画が売れた理由の一つは、この「実在」でした。町の娘を役者と同じ扱いにした。それが、幕府の目に留まります。

判じ絵で名前を隠す——歌麿と幕府の知恵比べ

喜多川歌麿『難波屋おきた』寛政年間、メトロポリタン美術館
喜多川歌麿『難波屋おきた』寛政年間、メトロポリタン美術館

1790年代、幕府は寛政の改革の一環として出版の取り締まりを強めました。

贅沢な刷りが咎められ、美人画に町の女性の名前を入れることが禁じられます。名前が書けなければ、ブロマイドは成り立たない。

歌麿は、絵で名前を書きました。

「判じ絵」です。たとえば絵の隅に描いた小さな図柄を読むと「おきた」になる、というなぞなぞ。当時の江戸の人は、これを解くのを楽しんだ。買い手も版元も絵師も、禁令の隙間で遊んでいた。ただし、幕府はやがてこの判じ絵まで禁じます。

隙間は、少しずつ塞がれていきました。

手鎖50日、そして2年後

1804年、歌麿は『太閤五妻洛東遊観之図』を出します。

豊臣秀吉が、5人の妻や側室を連れて京都で花見をする図です。幕府は、戦国の武将を面白おかしく描くことを禁じていました。歌麿はこれで捕らえられ、手鎖50日の刑を受けます。同じ主題を描いた他の絵師も一緒に罰せられました。

刑のあとも、歌麿は描き続けたと伝えられます。

ただ、体は弱っていた。1806年、歌麿は亡くなります。享年は50代半ばと考えられていますが、正確な生年はわかっていません。江戸でいちばん女の顔を描いた絵師の、記録に残る誕生日はないのです。

冒頭の一枚に戻ります。ポッピンを吹く娘の、すぼめた唇。

あれは玩具を吹いている口ではなく、江戸の町の娘が初めて絵の主役になった瞬間の口です。名前も残らない娘の顔を、雲母の光の上に一人で立たせた。あなたが次に歌麿を見るとき、着物より先に、口元を見てください。

よくある質問

Q. 歌麿の絵は日本のどこで見られますか?
東京国立博物館や太田記念美術館(東京・原宿)など、浮世絵を扱う館で展示されることがあります。浮世絵は光に弱く展示替えが多いので、公式サイトで確認してください。

Q. 「ポッピン」と「ビードロ」は同じものですか?
同じガラスの玩具です。この絵は『ビードロを吹く娘』とも呼ばれます。ビードロはガラスを指すポルトガル語から来た言葉です。

Q. 歌麿と写楽は関係がありますか?
直接の師弟関係はありませんが、二人とも版元の蔦屋重三郎から作品を出しています。写楽の役者絵が出た1794年は、歌麿の大首絵の全盛期と重なります。

まとめ:着物より先に、口元を

  • 歌麿は顔だけを大きく描く「大首絵」を美人画に持ち込み、町の娘を絵の主役にした
  • 雲母摺の光る背景は、版元の蔦屋重三郎との組み合わせで生まれた
  • 美人画の前には『画本虫撰』など、虫や貝や鳥を細密に描く絵本を手がけていた
  • 『当時三美人』は実在の娘を名前入りで描いた、いわばブロマイドだった
  • 幕府の禁令を判じ絵でかわし続けたが、1804年に手鎖50日の刑を受け、2年後に没した

『ポッピンを吹く娘』のすぼめた唇は、江戸の女の顔が初めて主役になった跡です。次に見るとき、まずそこから見てください。

関連アイテム

この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。