ファン・エイクは油絵を発明していない——『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の鏡に残した署名と、10個の細部

結婚式の絵、と思って見ていませんか。
帽子の男と、緑のドレスの女が手を取り合っている。足元に犬、天井にシャンデリア、奥にベッド。教科書には「油絵の発明者ファン・エイクの代表作」と書かれ、絵の説明は「夫婦の肖像」で終わることが多い。
ところが、この絵は見れば見るほど、説明が増えていきます。
壁には画家の署名がある。鏡の中には、画家本人らしき人物が立っている。妻は妊娠しているように見えるが、していない。そして、ファン・エイクは油絵を発明していません。
細部を10個、順に見ていきます。次にこの絵の前に立つとき、見る場所が変わります。
1. 油絵を発明していない——ヴァザーリが広めた「発明者」の話
ファン・エイクを「油絵の発明者」と書いたのは、16世紀イタリアの画家で伝記作家のヴァザーリです。
これは正しくありません。油で顔料を練る技法は、それより何百年も前から北ヨーロッパで使われていました。ファン・エイクがやったのは、発明ではなく完成です。透明な油の層を何度も重ねて、宝石のような深い色と、産毛のような細部を出す。その技術が同時代のどの画家より抜きん出ていたので、後の人が「発明」と呼びました。
つまり、この絵で見るべきは「初めての油絵」ではなく、「油絵でここまでできる」という到達点です。
2. 大きさは縦82センチ——ロンドンで見ると、意外に小さい
この絵は樫の板に描かれていて、縦82センチ、横60センチほど。
美術館のポスターで見ると壁一面の大作のように感じますが、実物は人の上半身ほどの大きさです。ロンドン・ナショナル・ギャラリーの部屋で、人だかりの向こうにあるのは、その小さな板です。
この小ささの中に、以下の細部が全部入っています。
3. 壁の署名「ヤン・ファン・エイクここにありき、1434」

鏡の上の壁に、飾り文字で一行書かれています。
ラテン語で「Johannes de eyck fuit hic 1434」。「ヤン・ファン・エイクここにありき、1434年」。普通の署名は「ファン・エイク作」と書くところを、この画家は「ここにいた」と書きました。
絵を描いた、ではなく、この部屋にいた。
まるで証人の署名です。この一行が、後の研究者に「結婚の証書ではないか」という説を立てさせました。今はその説も揺れていますが、画家が自分を「その場にいた人間」として絵に入れたことは動きません。どこにいたのか。それが次の細部です。
4. 鏡の中の二人——画家は絵の中に立っている
壁の凸面鏡には、部屋全体が小さく映っています。
夫婦の後ろ姿、窓、ベッド。そして入り口に、青い服と赤い服の二人の人物が立っている。夫婦がこちらを向いているということは、この二人は、私たちが立っている場所にいることになります。
一人は画家自身だと考えられています。
署名の「ここにありき」と、鏡の中の人物。二つが組み合わさって、画家はこの絵の中に自分を置きました。鏡の直径は絵の中で10センチもありません。その中に部屋と4人を描く。油絵の技術の見せ場です。
5. 鏡の縁の10個の丸——親指ほどの大きさに描かれた受難
鏡の木の縁には、10個の小さな円があります。
一つ一つに、キリストの受難の場面が描かれている。逮捕、鞭打ち、十字架、埋葬、復活。それぞれ親指の爪ほどの大きさです。左側、男の側には生前の場面、右側、女の側には死後の場面が並ぶ、という読み方もあります。
肉眼では、絵の前に立ってもほとんど見えません。
美術館の公式サイトの拡大画像で見るのが確実です。ファン・エイクは、見えないほど小さい場所にも手を抜きませんでした。
6. 妻は妊娠していない——緑のドレスの持ち方
緑のドレスの女性は、お腹が大きく見えます。
これは妊娠ではなく、当時の流行です。布をたっぷり使った重いドレスの前を、手で持ち上げて歩く。布の量は富の量で、たくし上げた布が腹の前でふくらむ。同じ時代の他の絵でも、未婚の聖女が同じ姿で描かれています。
緑は、当時のフランドルで高価な染料でした。袖の毛皮も高価です。この絵は、着ているものだけで、二人がどれだけ裕福かを語っています。
7. 犬、木靴、オレンジ——床と窓辺の持ち物
床には、小さな毛の長い犬が立っています。
毛の一本一本が描き分けられていて、こちらをまっすぐ見ている。忠実さのしるしと説明されることが多い犬ですが、単なる飼い犬だった可能性もあります。左下には脱いだ木靴。奥にも赤い履物がある。室内で靴を脱ぐ習慣の証拠であり、聖なる場所だから脱いだ、という読み方もされます。
窓辺には、オレンジが数個。
北ヨーロッパでオレンジは南から運ばれる高価な果物でした。ここにも富の表示があります。そして窓の外には、実をつけた桜の木。季節は夏です。
8. 昼間に1本だけ灯る蝋燭
天井の真鍮のシャンデリアには、蝋燭が1本だけ灯っています。
窓から光が差し込む昼間です。明かりは要らない。それでも1本だけ火がついている。神の存在を示す、結婚の誓いの蝋燭、あるいは注文主の希望。説はいくつもあります。
はっきりしているのは、ファン・エイクが意味なく物を置く画家ではなかったことです。
9. 二人は誰なのか——名前が変わった夫婦
長いあいだ、この夫婦はイタリアの商人ジョヴァンニ・アルノルフィーニと妻ジョヴァンナだとされていました。
アルノルフィーニ家は、イタリアのルッカからフランドルのブリュージュに来て、布や贅沢品の商売をしていた一族です。ところが20世紀の終わりに記録が調べ直され、その結婚は絵より後の年だとわかりました。今は同じ一族の別のジョヴァンニと、名前のわからない妻、という見方が有力です。
500年以上たっても、誰の絵かが動く。それだけ、この絵は研究され続けています。
10. 赤いターバンの男——「私にできる限り」

同じロンドンの美術館に、前年の1433年に描かれた男の肖像があります。
赤い布を頭に巻き、こちらを見ている。額縁には「Als ich can(私にできる限り)」という画家の座右の銘が書かれ、自画像だという説が有力です。ブリュージュのブルゴーニュ公の宮廷画家として、外交使節にも加わった男。
この目が、翌年、鏡の中から夫婦の部屋を見ていたことになります。
よくある質問
Q. 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』はどこにありますか?
ロンドンのナショナル・ギャラリーが1842年から所蔵しています。入館は無料です。展示室の変更もあるので、公式サイトで確認してください。
Q. ファン・エイクの他の代表作は?
兄フーベルトと完成させた『ヘントの祭壇画』(1432年、ベルギー・ヘントの聖バーフ大聖堂)が最大の作品です。閉じた状態と開いた状態で絵が変わる、大きな折りたたみ式の祭壇画です。
まとめ:絵の前で、この10個をもう一度
- ファン・エイクは油絵の発明者ではなく、油絵の透明な層を重ねる技術を完成させた画家
- 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』は縦82センチの小さな板で、壁に「ここにありき」と署名がある
- 鏡の中には画家らしき人物が立ち、縁の10個の円には受難の場面が描かれている
- 妻は妊娠しておらず、ドレスも犬もオレンジも蝋燭も、それぞれ読み方がある
- 夫婦が誰かは今も研究が続き、赤いターバンの男は画家本人の可能性がある
この10個は、絵の前で見返すために書きました。次にロンドンへ行くとき、あるいは美術館の公式サイトで拡大画像を開くとき、この記事をもう一度開いて、鏡から順に探してください。1番の「発明していない」は、見終わったころには忘れていて構いません。
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