クールベはなぜ村の葬式を幅6メートルの大画面に描いたのか?『オルナンの埋葬』と「天使は描かない」画家

縦3メートル15センチ、横6メートル68センチ。
パリのオルセー美術館にある『オルナンの埋葬』の大きさです。展示室の壁一面をふさぎ、描かれた人物はほぼ等身大。前に立つと、自分も参列者の列に加わったような気分になります。
ここまで大きな画面は、19世紀のフランスでは、神話や聖書、王の戴冠式のような「偉い主題」のためのものでした。
ところがこの絵に描かれているのは、名もない田舎の村の、ありふれた葬式です。英雄も聖人もいません。描いたギュスターヴ・クールベは、なぜそんなことをしたのか。答えは、彼が言ったとされる一言に詰まっています。
「天使を見せてくれたら描こう」——クールベの口ぐせ
クールベは1819年、フランス東部の小さな町オルナンで、裕福な農家の息子として生まれました。スイス国境に近い、石灰岩の崖に囲まれた土地です。
20歳でパリに出ると、ルーヴル美術館で昔の巨匠の絵を模写しながら、ほぼ独学で腕を磨きます。
彼の考えは、単純で頑固でした。画家は、自分の目で見たものだけを描くべきだ。見たこともない女神や天使を、想像で描くのは嘘だ。
「天使を描けと言うなら、まず天使を見せてくれ」。クールベはそう言った、と伝えられています。
この態度は、のちに「レアリスム(写実主義)」と呼ばれるようになります。そして、その宣言を一枚の絵でやってのけたのが、故郷で描いた葬式の絵でした。
『オルナンの埋葬』に並ぶのは、画家の家族と近所の人
画面を左から見ていきます。
十字架を掲げる男、白い服の少年たち、聖書を読む司祭。中央では墓掘りの男が片膝をつき、足もとには掘られたばかりの穴があります。右側には、黒い服で顔を覆う女性たちが並ぶ。手前には白い犬が一匹、退屈そうに立っています。
40人を超える参列者のモデルは、オルナンの村人たちでした。町長、司祭、墓掘り、そしてクールベの父や妹たち。実家の屋根裏のアトリエに、一人ずつ来てもらって描いたといいます。
奇妙なのは、誰の葬式なのかが、画面からはわからないことです。棺は布に覆われ、顔も名前も見えません。
主役は死者ではない。
この絵の主役は、葬式に集まった田舎の人々そのものです。退屈そうな顔、鼻の赤い役人、涙をぬぐう女性。誰ひとり、絵のためにポーズを取っているように見えません。
『オルナンの埋葬』が1850年のサロンで「醜い」と言われた理由
1850年の暮れ、この絵はパリの公式展覧会「サロン」に出品されました。
批評家たちの反応は、厳しいものでした。人物が醜い、品がない、構図に中心がない。神話の英雄が並ぶはずの大きさで、田舎の農民や役人を描くのは、絵画への侮辱だというわけです。
怒られた理由は、絵が下手だったからではありません。
大きさが、主題に見合っていないと受け取られたからです。当時の絵には格づけがありました。いちばん上が歴史画、その下に肖像画や風俗画、風景画、静物画と続く。大画面は、上の格の絵だけに許された特権でした。
クールベは、その特権を村の葬式に与えた。普通の人の人生にも、英雄と同じだけの大きさがある、と言ったのと同じことです。
同じころ描いた『石割り』も、道ばたで石を割る老人と少年をほぼ等身大で描き、同じように議論を呼びました。こちらは第二次世界大戦中、ドレスデンの空襲で焼失しています。
万博に落選したクールベは、隣に自分の展示館を建てた

1855年、パリで万国博覧会が開かれます。クールベは作品を応募しましたが、『オルナンの埋葬』と、新作の大作『画家のアトリエ』が落選しました。
彼は引き下がりませんでした。
万博会場のすぐ近くに、自費で小屋を建てたのです。看板は「レアリスム」。40点ほどの自作を並べ、入場料を取って公開しました。画家が自分で個展を開くことが珍しかった時代の話です。カタログには、自分の芸術の考えを書いた文章も載せました。
上の『画家のアトリエ』は、その目玉でした。中央で風景画を描いているのがクールベ本人。右側には友人や支持者、左側には狩人や物乞いなど、さまざまな階層の人々が集まっています。
客の入りは、あまりよくなかったと伝えられます。それでも、展示を見に来た若い画家たちには、強い印象を残しました。
『こんにちは、クールベさん』——いちばん胸を張っているのは画家

私がクールベの絵でいちばん好きなのは、この一枚です。
南フランスの田舎道。帽子を取って出迎えているのは、モンペリエの資産家ブリュイアス。クールベの作品を買い支えたパトロンです。後ろでは召使いが、うやうやしく頭を下げています。
右から歩いてきた画家は、どうでしょう。
画材を背負い、杖を突き、あごひげを突き出して、相手よりも胸を張っている。お金を出す側が頭を下げ、描く側がふんぞり返っている。こんな構図を、自分の絵で平気でやってしまうのがクールベでした。
当時は、この絵も「うぬぼれが過ぎる」と笑われています。ただ、画家がパトロンの下ではなく対等以上に立つという考えは、のちの画家たちの生き方を先取りしていました。
クールベに届いた、33年分割の請求書

晩年のクールベは、絵の外でも頑固さを貫きました。
1871年、パリで市民による自治政府「パリ・コミューン」が成立すると、彼はその議員になります。このとき、ナポレオンの戦勝をたたえるヴァンドーム広場の記念柱が引き倒されました。
コミューンが倒れると、クールベは柱の破壊の責任を問われ、投獄されます。さらに、柱を建て直す費用を払えという判決が下りました。年ごとの分割で払っても、33年かかる金額でした。
彼はスイスへ逃れ、1877年の大晦日、58歳で亡くなります。故郷オルナンには、最後まで帰れませんでした。
上の自画像は、若い20代のころのものです。髪をかきむしり、目を見開いてこちらを見る青年。この男が、のちにフランスの絵画の格づけそのものを揺さぶることになります。
よくある質問
Q. 『オルナンの埋葬』はどこで見られますか?
パリのオルセー美術館が所蔵しています。展示状況は変わることがあるので、訪れる前に公式サイトで確認してください。
Q. レアリスム(写実主義)とは何ですか?
神話や理想化された美ではなく、同時代の現実の人々や風景を、ありのままに描こうとする考え方です。19世紀半ばのフランスで、クールベを中心に広まりました。
Q. クールベはその後の画家にどう関わっていますか?
マネや、モネら印象派の若い画家たちは、身の回りの現実を描くクールベの姿勢から出発しました。モネとは親しく交流し、モネの『草上の昼食』にはモデルとして登場しています。
まとめ:大きさは、主題への敬意だった
- 『オルナンの埋葬』は縦3メートル15センチ、横6メートル68センチ。歴史画の大きさで、村の葬式を描いた
- モデルは画家の家族とオルナンの村人。誰の葬式かは描かれていない
- 「天使を見せてくれたら描く」。見たものだけを描くレアリスムを貫いた
- 万博に落選すると、隣に自費で展示館「レアリスム」を建てた
- 晩年はパリ・コミューンに関わり、スイスで亡くなった
あの6メートルは、自慢でも挑発でもありません。名前の残らない人々の一日を、神話と同じ大きさで扱うという、クールベなりの礼儀でした。
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