ハイドン『告別』では、演奏中に楽団員が1人ずつ帰っていく——「交響曲の父」と最初に聴きたい5曲

104曲。
ヨーゼフ・ハイドンが生涯に書いた交響曲の数です。ベートーヴェンは9曲、ブラームスは4曲。桁が一つ違います。
それだけ書けば、似たような曲が並んでいると思うかもしれません。ところがハイドンの交響曲には、聴き手を驚かせる仕掛けがあちこちに隠れています。眠りかけた客を飛び起きさせる大音量。時計の振り子のような伴奏。そして、演奏しながら楽団員が一人、また一人と舞台から消えていく曲。
その曲の名は『告別』。楽譜の上で書かれた、ストライキでした。
「交響曲の父」ハイドンは、宮廷の使用人だった
ハイドンは1732年、オーストリアの小さな村ローラウで、車大工の家に生まれました。少年時代はウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊で歌い、声変わりで追い出されたあとは、ほぼ独学で作曲を学びます。
29歳のとき、ハンガリーの大貴族エステルハージ家に雇われました。
雇われるとは、文字どおりの意味です。音楽家は貴族の使用人で、決められた制服を着て、毎日主人の指示を待つ。契約書には、求められればいつでも新しい曲を書くこと、その曲は主人のものであることが記されていました。
ハイドンはここで、約30年を過ごします。
エステルハーザ宮殿は「ハンガリーのヴェルサイユ」

主人のニコラウス・エステルハージ侯爵は、「豪華侯」とあだ名された派手好きの人でした。
彼はハンガリーの湖のほとりに、豪華な夏の宮殿を建てます。オペラハウスに人形劇場、広大な庭園。「ハンガリーのヴェルサイユ」と呼ばれたこの宮殿を、侯爵はすっかり気に入り、毎年夏の滞在をどんどん延ばしていきました。
困ったのは楽団員たちです。
宮殿には楽団員の家族が住む場所がなく、妻や子どもは遠くの町に残されていました。主人が宮殿にいるあいだ、楽団員も帰れません。1772年の夏、滞在は例年よりさらに長引き、楽団員たちは家に帰りたいと、楽長のハイドンにこぼしたといいます。
『告別』の最終楽章で、ろうそくが一本ずつ消える
ハイドンは、主人に直接文句を言いませんでした。かわりに、新しい交響曲を書きます。
曲は激しい短調で始まり、ふつうの交響曲のように進んでいきます。ところが最後の楽章で、速い音楽が突然止まり、ゆっくりした音楽に変わる。そこから奇妙なことが起きます。
自分の出番を終えた奏者が、譜面台のろうそくを吹き消し、楽器を持って席を立つのです。
オーボエが去り、ホルンが去り、コントラバスが去る。音はどんどん薄くなり、最後にはヴァイオリン2人だけが残ります。ハイドン自身と、楽団のコンサートマスターでした。
翌日、出発の命令。
侯爵は、この演奏の意味をすぐに理解したと伝えられます。
楽団員がみな帰るなら、我々も帰らなければなるまい。そう言って、翌日には宮殿を引き払う命令が出たという話が残っています。主人を怒らせることなく、願いだけを確実に届けた。使用人だったハイドンの、静かで見事な交渉でした。
この逸話は、ハイドンが晩年に語った話として、伝記作家によって書き残されたものです。
『告別』は、当時ほとんど使われない調で書かれた
『告別』は嬰ヘ短調という調で書かれています。シャープが3つつく短調です。
18世紀の交響曲で、この調が選ばれることはほとんどありませんでした。管楽器が演奏しにくく、響きも暗く張りつめる。ふつうの宮廷の楽しみのための音楽には、まず使われない調です。
最初の楽章から、音楽はどこか切迫しています。私はこの曲を、ただの冗談音楽ではないと思っています。家族に会えない楽団員たちの苛立ちが、冒頭の数小節からもう鳴っているからです。
世間から切り離されていたから、ハイドンは独創的になれた

田舎の宮殿に閉じこめられた生活は、ハイドンにとって不幸だけではありませんでした。
手元には自由に使える楽団があり、主人は新しい音楽を欲しがる。書いた曲はすぐに演奏され、どこがうまくいき、どこが退屈かを確かめられる。ハイドンは晩年、こう振り返っています。世間から切り離されていたので、自分は独創的にならざるをえなかった、と。
侯爵が好んだ珍しい弦楽器「バリトン」のためにも、ハイドンは100曲以上の作品を書きました。注文に応える仕事の中から、新しい形が次々に生まれていきます。
58歳のハイドンがロンドンで鳴らした、『驚愕』の大音量
1790年、主人のニコラウス侯爵が亡くなります。後継ぎは音楽に関心が薄く、楽団はほぼ解散しました。
ハイドンは58歳で、初めて自由の身になります。
翌年、ロンドンの興行師に招かれて海を渡ると、演奏会は大成功でした。2度のロンドン滞在のために書いた12曲は、いまも「ロンドン交響曲」として親しまれています。
その一つ『驚愕』の第2楽章は、静かな旋律が穏やかに進んだあと、突然オーケストラ全体が大きな音を鳴らします。演奏会でうとうとする客を起こすためだった、とよく言われますが、本人は、聴衆を新しいもので驚かせたかったと語っていたそうです。
モーツァルトが曲を捧げ、ドイツ国歌が生まれた
ハイドンは、24歳年下のモーツァルトと深い友情で結ばれていました。
モーツァルトは6曲の弦楽四重奏曲をハイドンに捧げています。ハイドンはモーツァルトの父に、あなたの息子は私が知るかぎり最も偉大な作曲家だ、と伝えました。
晩年には、オーストリア皇帝をたたえる歌を作曲します。このメロディは、のちに現在のドイツ国歌のメロディとして使われることになりました。ハイドンは1809年、77歳でウィーンで亡くなります。
まず聴きたい、ハイドンの交響曲5曲
最後に、最初の1曲を選ぶためのリストを置いておきます。
- 第45番『告別』:最終楽章で楽団員が1人ずつ去る。コンサートで演奏されるときは、本当に奏者が席を立つことが多い
- 第94番『驚愕』:第2楽章、静かな旋律のあとの一撃。来るとわかっていても肩が跳ねる
- 第101番『時計』:第2楽章の伴奏が、振り子のように規則正しく刻まれる
- 第100番『軍隊』:シンバルや大太鼓など、当時の軍楽隊の打楽器が鳴り響く
- 第104番『ロンドン』:最後の交響曲。104曲の到達点として、堂々とした響き
よくある質問
Q. なぜハイドンは「交響曲の父」と呼ばれるのですか?
交響曲を最初に作った人ではありませんが、4つの楽章で組み立てる形を、膨大な作品を通して完成させたことからこう呼ばれます。モーツァルトやベートーヴェンの交響曲は、その形の上に書かれています。
Q. 『告別』の演奏は、いまも本当に奏者が帰るのですか?
多くの演奏会で、楽譜の指示どおり奏者が順番に退場する演出が行われます。指揮者まで舞台を去るなど、楽団ごとに工夫をこらすこともあります。
まとめ:104曲の中に、驚きが隠れている
- ハイドンは交響曲を104曲書き、「交響曲の父」と呼ばれる
- エステルハージ家の使用人として、約30年間、田舎の宮殿で作曲を続けた
- 『告別』は、帰れない楽団員の思いを主人に伝えるため、最後に奏者が1人ずつ去る形にした
- 主人の死後、58歳でロンドンへ渡り、『驚愕』などの傑作を書いた
- モーツァルトと友情を結び、晩年の作品はドイツ国歌のメロディになった
上の5曲のリストは、ハイドンを聴くたびに見返して、1曲ずつ印をつけていってください。5曲聴き終えたころには、104曲のうちのどれが次に聴きたくなるか、自分でわかるようになっています。
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