河鍋暁斎とは?酔って描いた戯画で投獄された「画鬼」と、鹿鳴館を建てた英国人の弟子

河鍋暁斎『暁斎楽画 地獄太夫がいこつの遊戯ヲゆめに見る図』。骸骨たちの宴を夢に見る遊女
河鍋暁斎『暁斎楽画 地獄太夫がいこつの遊戯ヲゆめに見る図』。骸骨たちの宴を夢に見る遊女

笞(むち)で50回。

明治3年(1870年)、一人の絵師に言い渡された刑罰です。罪状は、酒の席で役人をからかうような絵を描いたこと。絵師は牢に入れられ、年を越してから笞を受けて放されました。

その名は河鍋暁斎。幕末から明治を生きた絵師で、自ら「画鬼」と名乗るほど、描くことしか頭にない人でした。

上の絵を見てください。赤い衣の遊女が、頬杖をついて眠っています。その周りでは、骸骨たちが三味線を弾き、踊り、酒盛りをしている。美しさと不気味さと笑いが、一枚に詰め込まれています。

暁斎は、何でも描けた人でした。そして、描いてはいけないものまで描いてしまう人でした。

7歳で国芳に入門し、9歳で生首を写生した

暁斎は1831年、下総国古河(いまの茨城県古河市)に生まれ、幼いころ江戸に移りました。

7歳で入門したのが、浮世絵師・歌川国芳の画塾です。武者絵や猫の絵で人気の、江戸でいちばん威勢のいい絵師でした。少年は国芳のもとで、人や動物を画面の中で暴れさせる描き方を覚えます。

9歳のときには、こんな話が残っています。大雨で増水した神田川で、流れてきた生首を拾い、家に持ち帰って写生した。家族は大騒ぎになったそうです。

真偽は確かめようがありません。それでもこの逸話が暁斎の伝記で真っ先に語られるのは、「見たものは何でも描く」という彼の生き方を、これ以上なくよく表しているからでしょう。

狩野派で学んだ「お手本」と、「画鬼」というあだ名

10歳になると、暁斎は狩野派の絵師のもとへ移ります。狩野派は、室町時代から将軍家の御用を務めてきた、日本でもっとも格式の高い絵師の流派です。古い名画を手本に、筆の運びを一から写して覚える、厳しい修業で知られていました。

浮世絵の自由な線と、狩野派の正統な筆づかい。暁斎は、この正反対の2つを両方とも身につけました。

寝ても覚めても描いている少年を、師匠は「画鬼」と呼んだと伝えられます。暁斎自身も、のちにこの言葉を自分の呼び名のように使っています。

若いころの画号は「狂斎」。狂った斎、です。

明治3年、酔って描いた一枚で牢屋へ

明治の世になって3年目の秋。上野・不忍池のほとりの料亭で、絵師や書家が集まり、その場で書画を描いてみせる「書画会」が開かれました。

大酒飲みの暁斎は、すっかり酔って筆を取ります。描いたのは、新しい政府の役人を当てこすったような戯画でした。それが見とがめられ、その場で捕らえられます。

牢屋で冬を越し、笞50回の刑を受けて放されたとき、暁斎は30代の終わりでした。

ここで画号を「狂斎」から「暁斎」に改めます。「狂」の字を、夜明けを意味する「暁」に替えた。懲りたのか、新しい出発のつもりだったのか。ただ、その後の作品を見るかぎり、毒っ気が抜けたようには見えません。

出獄から数年のうちに、暁斎は『暁斎楽画』と題した色鮮やかな版画のシリーズを出しています。冒頭の『地獄太夫』の骸骨たちも、その一枚。世の中をからかう目は、牢に入る前よりむしろ冴えていました。

カラス一羽に100円——「長年の修業の値段」

河鍋暁斎が描いたカラス
河鍋暁斎が描いたカラス

1881年、東京・上野で国の博覧会が開かれ、暁斎は枯れ木にとまるカラスを描いた水墨画を出品しました。この絵は、絵画の部門で最高の評価を受けます。

話題になったのは、値段でした。暁斎はこの絵に100円の値をつけました。当時としては、驚くほどの高値です。

カラス一羽に100円とは高すぎる。そう言われた暁斎は、これはカラスの値段ではなく、長年の修業の値段だ、という意味の言葉を返したと伝えられます。絵には実際に買い手がつき(東京・日本橋の老舗の菓子屋の主人だったといわれます)、暁斎のカラスは評判を呼んで、注文が相次ぎました。

墨一色。羽の黒さの濃い薄いだけで、つやのある羽毛と、ごつごつした枝を描き分けたカラスです。上の絵でも、筆の勢いが残ったまま、鳥がこちらをにらんでいます。

鹿鳴館を建てた英国人が、弟子入りした

暁斎の絵日記に描かれたジョサイア・コンドル(奥の西洋人)。床に広げた紙に向かう人物をのぞきこんでいる
暁斎の絵日記に描かれたジョサイア・コンドル(奥の西洋人)。床に広げた紙に向かう人物をのぞきこんでいる

同じころ、暁斎のもとに一人のイギリス人が弟子入りします。

ジョサイア・コンドル。明治政府に招かれて来日した建築家で、のちに鹿鳴館を設計し、東京大学工学部の前身の学校で日本人建築家たちを育てた人です。東京・上野の旧岩崎家住宅の洋館も、彼の設計として知られています。

西洋の最新の建物を設計していた人物が、筆と墨の修業を一から始めた。暁斎は外国人だからと手加減せず、狩野派の手本を写させるところから教えたといわれます。

コンドルは本気でした。暁斎から「暁英」という画号をもらい、何年も通って筆の使い方を学びます。暁斎が描き残した絵日記には、床に紙を広げて描く場面を、熱心にのぞきこむ大柄な西洋人の姿が登場します。上の一枚もその一つです。

暁斎の死後、コンドルは師の作品と画法を英語で紹介する本を出版しました。暁斎の絵が海外でいまも人気を集めているのは、この弟子のおかげでもあります。

骸骨と遊女、踊るカエル——暁斎の絵の見方

河鍋暁斎が描いた、蓮の茎で曲芸をするカエルたち
河鍋暁斎が描いた、蓮の茎で曲芸をするカエルたち

暁斎の絵を前にしたら、まず全体をながめるより先に、「誰が何をしているか」を一人ずつ探してみてください。

冒頭の『地獄太夫』では、骸骨の一体一体が別のことをしています。三味線を弾く者、組み合ってふざける者、碁盤にもたれる者。どれもふざけた格好なのに、骨の一本一本は解剖図のように正確です。

上のカエルの掛け軸も同じです。細い蓮の茎のてっぺんに一匹、茎の途中にもう一匹、下では扇を持ったカエルが片足で踏ん張っている。墨の線は少ないのに、カエルの腹のふくらみや、跳ねる脚の筋肉まで伝わってきます。人間の曲芸一座を、そのままカエルに置き換えたような一枚。鳥獣戯画から続く、動物に人間のふりをさせる笑いを、暁斎は明治まで運んできました。

私は暁斎の絵を見ると、いつも「こんなにうまいのに、なぜこんなにふざけるのか」と思います。たぶん、うますぎたからです。何でも描ける人にとって、まじめな絵とふざけた絵の境目は、大した問題ではなかった。

1889年、暁斎は57歳で亡くなりました。病の床でも筆を離さなかったといわれます。

よくある質問

Q. 暁斎の作品はどこで見られますか?
埼玉県蕨市の河鍋暁斎記念美術館が、暁斎と一門の作品を所蔵・展示しています。開館日や展示内容は、公式サイトで確認してください。

Q. 暁斎は浮世絵師ですか、日本画家ですか?
どちらとも言えます。国芳に学んだ浮世絵の版画も、狩野派の技法による掛け軸や屏風も手がけました。一つの流派に収まらない幅の広さが、暁斎の特徴です。

まとめ

  • 河鍋暁斎は幕末から明治の絵師。7歳で歌川国芳に入門し、のちに狩野派でも学んだ
  • 「画鬼」と呼ばれるほど描くことに没頭し、酔って描いた戯画で投獄された
  • 博覧会に出したカラスの絵に100円の値をつけ、評判を呼んだ
  • 鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルが弟子入りし、師の画業を海外に伝えた

笞50回の刑を受けた絵師は、そのあとも描くのをやめませんでした。号の「狂」を「暁」に替えただけで、骸骨も、カエルも、人をからかう筆も手放さなかった。冒頭の遊女のまわりで踊る骸骨たちは、牢から出てきた画鬼の、懲りない笑い声のように見えてきます。

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