ベルト・モリゾとは?印象派展8回のうち7回に出品した画家と、『ゆりかご』をのぞく姉

ベルト・モリゾ『ゆりかご』1872年、オルセー美術館。眠る赤ん坊を見つめているのは、画家の姉エドマ
ベルト・モリゾ『ゆりかご』1872年、オルセー美術館。眠る赤ん坊を見つめているのは、画家の姉エドマ

印象派の画家といえば、モネ、ルノワール、ドガ。ここまでは、多くの人がすらすら名前を挙げられます。

では、その仲間に女性がいたことは知っていますか。

1874年、パリで開かれた第1回の印象派展。出品者のなかに、一人だけ女性の名前がありました。ベルト・モリゾです。彼女はその後の印象派展にも出品を続け、全8回のうち7回に作品を並べています。モネもルノワールも、途中で出品をやめた回があるのに、です。

上の『ゆりかご』は、その第1回展に出された1枚。白い薄布ごしに、若い母親が眠るわが子を見つめています。

この母親が誰なのかを知ると、絵の静けさが少し違って見えてきます。

姉妹で画家を目指した——ルーヴルで模写をする娘たち

モリゾは1841年、フランスの裕福な役人の家に生まれました。

当時、良家の娘が絵を習うのは珍しいことではありません。ただしそれは、教養としての「たしなみ」まで。プロの画家になることは、まず期待されていませんでした。

国立の美術学校エコール・デ・ボザールは、女性の入学を認めていなかった。画家たちが集まって議論するカフェにも、若い女性が一人で出入りすることはできない時代です。

それでもモリゾは、姉のエドマと一緒に本気で絵を学びました。

ルーヴル美術館で名画を模写し、風景画家コローに外で絵を描く手ほどきを受ける。姉妹は並んでイーゼルを立て、サロン(国の公式展覧会)にも作品を送って入選しています。

ところが、姉のエドマは結婚を機に、絵筆を置いてしまいます。

『ゆりかご』で、妹は姉を描いた

『ゆりかご』に描かれた母親が、そのエドマです。

眠っているのは、エドマの生まれたばかりの娘。かつて妹と並んで絵を描いていた姉が、今は母として、ゆりかごのそばに座っています。

絵をよく見てほしいところは、2つあります。

1つは、白い薄布。ゆりかごを覆うカーテンは、ほとんど白一色なのに、赤ん坊の頬や布のしわが、透けて見える。窓の光を受けた布の、ふわりとした手ざわりまで伝わってきます。

もう1つは、エドマの顔です。頬づえをつき、口を結んで、わが子を見下ろしている。うっとりした笑顔ではありません。どこか考えごとをしているような、少し遠い表情に見えます。

この表情を、絵をやめた姉の複雑な思いと読む人もいます。もちろん、本人が何を考えていたかは誰にもわかりません。ただ、妹は姉を「理想の母親像」として飾り立てなかった。

それは、家の中を描き続けたモリゾの画風そのものでした。

鏡の前で髪を整える女性、庭で遊ぶ子ども、乳母に抱かれた赤ん坊。同じ時代の男性画家が街のカフェや劇場を描いたのに対して、モリゾの画面には、女性が日々を過ごす部屋と庭がくり返し登場します。行ける場所が限られていたからこそ、その場所を誰よりも細かく見つめた画家でした。

マネのモデルになり、マネの弟と結婚した

エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』1872年、オルセー美術館
エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』1872年、オルセー美術館

モリゾの名前は、別の画家の絵で知っている人もいるはずです。

1868年、モリゾはルーヴルで画家エドゥアール・マネと知り合いました。黒い帽子と黒い服、大きな黒い瞳。上の肖像画は、マネが描いたモリゾの姿です。マネは彼女をモデルに、10点を超える作品を残しています。

最初にモデルを務めたのは、『バルコニー』という作品でした。緑の手すりの前に3人の男女が並び、手前に座ってこちらを見つめる黒い瞳の女性が、モリゾです。この絵がサロンに飾られると、モリゾは手紙のなかで、自分は醜いというより奇妙に見える、という趣旨の感想を書いています。

二人は互いの画風に影響を与え合いました。

1874年、モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚します。ウジェーヌも絵を描く人で、妻の仕事に理解がありました。結婚したあとも、モリゾは画家としての名前「ベルト・モリゾ」で作品を発表し続けます。

姉のように、結婚で絵をやめることはしなかった。

同じ年に、印象派の第1回展が開かれています。マネ自身は、この展覧会に一度も出品しませんでした。モリゾは、師とも友ともいえる人と、違う道を選んだことになります。

筆の跡がジグザグに走る——夏の池とイギリスの窓辺

ベルト・モリゾ『夏の日』1879年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
ベルト・モリゾ『夏の日』1879年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

モリゾの絵は、近づいて見ると驚くほど筆の跡が粗い。

『夏の日』では、パリの西にあるブローニュの森の池に、ボートを浮かべた2人の女性が描かれています。水面は、短いジグザグの筆づかいの重なり。顔や手も、細かく描き込まれていません。

離れて見ると、その粗い筆の跡が、揺れる水と夏の光に変わる。

当時の批評家のなかには、こうした絵を「描きかけ」だと笑う人もいました。ただ、モリゾにとっては、この速さこそが大切でした。光は一瞬で変わる。じっくり描き込むうちに、見たはずの景色は消えてしまうからです。

ベルト・モリゾ『ワイト島のウジェーヌ・マネ』1875年、マルモッタン・モネ美術館
ベルト・モリゾ『ワイト島のウジェーヌ・マネ』1875年、マルモッタン・モネ美術館

新婚旅行先のイギリス、ワイト島で描いたのが、上の1枚です。

窓辺に座る夫のウジェーヌが、外を眺めている。窓の向こうには、港の帆船と、柵のそばを歩く母と子。部屋の中と外が、一枚のガラスでつながっています。

家の中から外を見る。この視点が、モリゾの絵にはくり返し現れます。

「職業なし」と記された画家

1878年、モリゾには一人娘のジュリーが生まれました。翌年の第4回印象派展だけは、出産のために出品を見送っています。これが、8回のうち欠けた1回です。

ジュリーは、その後のモリゾの絵にもっとも多く登場するモデルになりました。

1895年、娘の看病をするうちに自分も病に倒れ、モリゾは54歳で亡くなります。死亡の届けには、職業の欄に「なし」と書かれていたと伝えられます。

30年近く絵を描き続け、印象派展の中心にいた人が、書類の上では画家ではなかった。

それでも、仲間たちは彼女を画家として送り出しました。

亡くなった翌年、パリの画廊で大きな回顧展が開かれます。準備に奔走したのは、ドガ、モネ、ルノワールといった印象派の仲間たちでした。ドガは展示の飾りつけにまで細かく口を出したといわれます。

16歳で両親を失ったジュリーの後見人になったのは、モリゾの家のサロンに通っていた詩人のマラルメでした。ジュリーはのちに、少女時代の日記を残しています。そこには、ルノワールやドガが家を訪れ、母の絵について語る日々が書きとめられています。

母が描いた娘は、母の仲間たちを書きとめる人になりました。

よくある質問

Q. 『ゆりかご』はどこで見られますか?
パリのオルセー美術館が所蔵しています。展示状況は変わることがあるので、公式サイトで確認してください。

Q. モリゾの作品を多く持つ美術館はありますか?
パリのマルモッタン・モネ美術館は、モリゾの作品をまとまって所蔵していることで知られます。

Q. ほかに印象派の女性画家はいましたか?
アメリカ出身のメアリー・カサットが、ドガに誘われて印象派展に参加しています。母と子を描いた作品が多い点は、モリゾと共通しています。

まとめ

  • ベルト・モリゾは、第1回印象派展にただ一人の女性として参加し、全8回のうち7回に出品した
  • 『ゆりかご』の母親は、結婚して絵をやめた姉のエドマ
  • マネのモデルを務め、マネの弟ウジェーヌと結婚したあとも、画家として描き続けた
  • 粗く速い筆づかいで、家の中や庭、水辺の光を描いた

『ゆりかご』の白い薄布は、ただの飾りではありません。描いた妹と、描かれた姉のあいだにかかっていた、薄い一枚の幕です。

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