王妃のドレスが「下着だ」と叩かれた——ヴィジェ=ルブランが描いたマリー・アントワネット

1783年の夏、パリのルーヴル宮。
2年に一度の公式展覧会「サロン」の会場で、一枚の肖像画の前に人だかりができていました。描かれているのは、フランス王妃マリー・アントワネット。麦わら帽子をかぶり、白い薄手の木綿のドレスを着て、バラの花を手にしています。
人々はささやき合いました。王妃が、下着姿で描かれている。
絵はほどなく会場から外されました。描いたのは、王妃と同い年の28歳の女性画家、エリザベート・ヴィジェ=ルブランです。
王妃と同い年の、ほぼ独学の肖像画家
ヴィジェ=ルブランは1755年、パリに生まれました。マリー・アントワネットがウィーンで生まれたのと同じ年です。
父はパステル画の肖像画家でした。娘は幼いころから絵ばかり描いていましたが、父は彼女が12歳のときに亡くなります。そこからは、ほとんど独学でした。美術館の名画を模写し、画家たちの助言を受けながら腕を磨き、10代のうちに肖像画で一家の家計を支えるようになります。
当時、女性が画家として正式に学ぶ道はほとんど閉ざされていました。王立の美術学校は男性のもので、裸体のモデルを描く授業にも女性は出られなかった。
それでも彼女の肖像画は評判を呼び、貴族たちの注文が集まります。
1778年、23歳のとき、ついに王妃の肖像を描くよう求められました。初めて会った二人は、同じ年に生まれた女性同士。王妃はこの画家を気に入り、以後10年ほどのあいだに、何度も自分と家族の肖像を描かせることになります。
1783年のサロン——「下着姿の王妃」
問題の絵は、王妃が宮廷の外で過ごすときの、くつろいだ姿を描いたものでした。
ヴェルサイユ宮殿の庭の一角に、王妃はプチ・トリアノンという自分だけの小さな離宮を持ち、そのそばに、わらぶき屋根の農家が並ぶ田舎風の村までつくらせることになります。そこでは、重いコルセットと何枚も重ねた絹のドレスを脱ぎ、軽い木綿のドレスで過ごした。このドレスは「シュミーズ・ドレス」と呼ばれます。シュミーズとは、もともと肌着を意味する言葉です。
王妃にとっては、お気に入りの普段着でした。
けれどもサロンに来た人々にとって、国の王妃が肌着のような服で人前に描かれるのは、とんでもないことでした。威厳がない、品がない、という非難が相次ぎます。外国から輸入される木綿のドレスを王妃が好むことで、フランスの絹織物の産業が打撃を受ける、という批判まで出ました。
王妃は、ただでさえ浪費家として評判を落としていた時期でした。
ヴィジェ=ルブランは急いで、もう一枚の肖像を描きます。
同じポーズのまま、絹のドレスに着せ替えた

それが、上の『薔薇を持つマリー・アントワネット』です。
最初の絵と見比べてみてください。体の向き、首のかしげ方、両手でバラを持つ手つきは、ほとんど同じです。変わったのは服でした。
白い木綿のドレスは、青みがかった灰色の絹のドレスに。胸もとと袖には、たっぷりのレースがあしらわれています。麦わら帽子は、羽根飾りのついた髪飾りに替えられました。
同じ人の、同じしぐさ。着る服を替えただけで、絵の印象は「くつろいだ女性」から「王妃」に戻ります。
私はこの2枚を並べるたびに、肖像画が「本人を写す」だけのものではなかったことを思います。人々が王妃に何を求め、何を許さなかったのか。それが、2枚のドレスの違いに描き込まれています。
空のゆりかご——1787年の家族の肖像

4年後、ヴィジェ=ルブランは、縦2メートルを超える、王妃と子どもたちの大きな肖像を描きます。
赤いビロードのドレスの王妃が、膝に幼い次男をのせて座っている。左から長女が寄り添い、右では長男がゆりかごの覆いを持ち上げて、中を指さしています。
ところが、そのゆりかごは空っぽです。
もとは、生まれたばかりの次女ソフィーが描かれる予定だったといわれます。けれども、この年の夏、ソフィーは1歳を前に亡くなりました。画家は赤ん坊を描かず、空のゆりかごを残しました。
この絵には、もう一つの役目がありました。浪費家として非難され、「赤字夫人」とまで呼ばれていた王妃を、子どもを愛する母として描き直すことです。サロンに出品されたこの絵は、王妃への反感が強かったため、初日にはあえて飾られなかったとも伝えられます。
歯を見せて笑った自画像

同じ1787年のサロンには、画家自身の自画像も並びました。
娘のジュリーを抱きしめ、こちらを見て微笑む若い母親。上の画像の、少し開いた唇をよく見てください。白い歯がわずかにのぞいています。
これが、また非難の的になりました。
当時の肖像画では、口を閉じて静かに微笑むのが品のある表情とされ、歯を見せるのは、はしたないことと考えられていたからです。今の私たちには、ごく自然な母親の笑顔にしか見えません。この「自然さ」こそが、当時は新しすぎました。
革命の夜、娘を連れてパリを逃れた
1789年、フランス革命が始まります。
王妃のお気に入りの画家として知られていたヴィジェ=ルブランは、身の危険を感じ、その年の秋、幼いジュリーを連れて変装し、乗合馬車でパリを逃れました。
それから12年あまり、彼女は国外で暮らします。ローマ、ナポリ、ウィーン、そしてロシアのサンクトペテルブルク。どこへ行っても、王侯貴族たちが彼女に肖像を描いてほしいと列をつくりました。ロシアでは、女帝エカチェリーナ2世の宮廷にも出入りし、皇帝一族の肖像を手がけています。亡命中も、彼女は画家として稼ぎ続けました。
1793年、マリー・アントワネットはパリで処刑されます。
ヴィジェ=ルブランがフランスに戻ったのは、1802年のことでした。晩年には回想録を書き、王妃と過ごした日々を書き残しています。亡くなったのは1842年、86歳でした。
よくある質問
Q. ヴィジェ=ルブランの作品はどこで見られますか?
王妃の肖像はヴェルサイユ宮殿に、娘を抱いた自画像はパリのルーヴル美術館にあります。ほかにも、ロンドンのナショナル・ギャラリーやニューヨークのメトロポリタン美術館など、各地の美術館が所蔵しています。展示状況は各館の公式サイトで確認してください。
Q. 彼女は王立の美術アカデミーに入れたのですか?
はい。1783年、王妃の後押しもあって、王立絵画彫刻アカデミーの会員に迎えられました。同じ日に、女性画家アデライド・ラビーユ=ギアールも会員になっています。当時、女性の会員はごくわずかでした。
まとめ
- ヴィジェ=ルブランは王妃マリー・アントワネットと同じ1755年生まれの、ほぼ独学の肖像画家
- 1783年のサロンで、木綿のシュミーズ・ドレスの王妃の肖像が「下着姿」と非難され、外された
- 同じポーズで絹のドレスに描き直したのが『薔薇を持つマリー・アントワネット』
- 1787年の家族の肖像には、亡くなった王女のための空のゆりかごが描かれている
- 革命が始まると娘を連れて亡命し、12年あまり国外で描き続けた
1783年のサロンで外された白いドレスの王妃は、宮殿の外で過ごすときの、いちばん楽な服を着ていただけでした。その一枚を描いた画家は、6年後、自分も身軽な服で、娘の手を引いてパリを去ることになります。
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