『鮭』は縄で吊るされ、半身だけ切り取られている——高橋由一が明治の日本に油絵を根づかせるまで

縄で吊るされた、一匹の鮭。
美術の教科書で、一度は見たことがあるはずです。頭のほうから身が半分切り取られ、鮮やかな橙色の切り口がのぞいている。下半分には、銀色のうろこが乾いて粉をふいたように残っています。
描いたのは、高橋由一。日本で最初の本格的な洋画家と呼ばれる人です。
ただ、この絵の前で多くの人は、ちょっと戸惑います。なぜ、わざわざ鮭なのか。しかも、きれいな丸ごとの姿ではなく、食べかけのような半身を。
答えは、由一が油絵に何を求めていたかにあります。彼が油絵に出会ったのは、まだ髷(まげ)を結った侍だった頃でした。
ちょんまげの侍が、1枚の石版画に打ちのめされた

由一は1828年、江戸の武家に生まれました。子どもの頃から絵が得意で、日本画の名門・狩野派の絵を学んでいます。
人生が変わったのは、20代の頃。西洋から入ってきた石版画(石の版で刷った印刷の絵)を見る機会がありました。
描かれていたのは、ありふれた西洋の風景です。けれど由一は、その「本物らしさ」に打ちのめされます。建物に厚みがあり、光が当たり、影が落ちている。墨の線で形をなぞる日本の絵とは、まるで違うものに見えた。
それから彼は、西洋の絵の描き方を独学で探り始めます。ところが、教えてくれる人がいない。画材も手に入らない。油絵の具の作り方すら、手探りでした。
1862年、30代半ばで、幕府が西洋の学問を研究するために設けた役所に入り、絵の部門で働き始めます。1866年には横浜に出向き、イギリスの新聞の挿絵画家チャールズ・ワーグマンに、ようやく油絵の手ほどきを受けました。
上の自画像は、そのころの由一とされる姿です。頭には髷。顔は、陰影をつけた西洋の描き方。江戸と西洋が、一枚の中で同居しています。
『鮭』はなぜ、縦長で、半身なのか
明治に入ると、由一は東京で自分の画塾を開き、油絵を描き続けます。『鮭』が描かれたのは、1877年ごろとされています。
画面は、極端な縦長です。
鮭の頭から尾までを入れるために、細長くした。それだけではありません。この形は、床の間に掛ける掛け軸によく似ています。西洋の油絵の技術で描きながら、飾る場所は日本の家を想定していた。そう読む研究者は少なくありません。
題材の鮭も、明治の人にとっては身近なものでした。塩をして縄で吊るす「新巻鮭」は、年の暮れの贈り物の定番です。台所の柱に吊るされ、食べるぶんだけ切り取られていく。由一が描いたのは、そういう、どこの家にもある光景でした。
ここに、由一の考えがはっきり出ています。
狩野派の絵は、手本をなぞり、決まった型で描くものでした。由一が油絵に求めたのは、その反対です。目の前にあるものを、そのままの質感で写し取る。鮭なら、切り口のしっとりした身の照り。乾いたうろこのざらつき。荒縄のけば立ち。
画面に近づいて、うろこを見てください。白く粉をふいたような部分と、銀色に光る部分が、細かく塗り分けられています。切り口の橙色は、上のほうほど濃く、筋の一本一本まで描かれている。
由一は鮭を何度も描いていて、ほかの美術館にも別の『鮭』が残っています。それだけ、この題材で油絵の力を示せると考えていたのでしょう。
同じころには、まな板の上に豆腐と焼き豆腐、油揚げを並べただけの『豆腐』という絵も描いています。花鳥風月でも、歴史の英雄でもない。台所の食べものが、そのまま絵の主役になる。日本の絵の歴史の中で、これはかなり大胆な選択でした。
私は、由一の絵のいちばんの見どころは、この「題材の低さ」だと思っています。立派なものを立派に描くのではなく、ありふれたものを、ありふれたまま、ものすごい手間で描く。その手間のかけ方に、油絵という新しい道具への信頼が出ています。
『花魁』のモデルは、完成した絵を見て泣いた

「そのまま写す」という態度は、人を描くときにも変わりませんでした。
1872年の『花魁』。吉原の花魁、小稲(こいな)をモデルにした肖像です。頭には、放射状に広がる何本ものかんざし。打掛けには、雲と龍の模様が描かれています。
浮世絵の美人画を見慣れた目で、この顔を見てください。細い目、少し張った頬、厚みのある唇。理想の美人に整えた顔ではありません。その日、その場にいた一人の女性の顔です。
できあがった絵を見た小稲は、私はこんな顔ではない、と泣いて怒ったと伝えられます。
浮世絵の美人画は、誰を描いても同じような美しい顔になる約束の上に成り立っていました。由一の油絵は、その約束を守らなかった。花魁の涙は、日本人が初めて「写実」というものに出会ったときの、正直な反応だったのかもしれません。
美術館のない国で、油絵を残すために
由一の仕事は、絵を描くことだけでは終わりませんでした。
由一は、油絵には物の姿を長く、正確に残す力があると考えていました。写真がまだ珍しかった時代です。絵は、鑑賞するものであると同時に、記録の道具でもありました。
けれど明治の初め、日本にはまだ美術館がありません。油絵を見せる場所も、集めて守る場所もない。由一は、絵を飾るための建物の構想を立て、らせん状の通路を上りながら絵を見ていく「螺旋展画閣(らせんてんがかく)」という美術館の計画まで描きました。この計画は実現していません。
それでも、作品の一部は意外な場所で守られました。香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)です。由一は、画塾の運営への支援を受けたことをきっかけに、まとまった数の作品をこの神社に奉納しました。いまも境内の高橋由一館で、その作品を見ることができます。

由一は1894年、66歳で亡くなりました。その前の年には、パリで学んだ黒田清輝が帰国しています。手探りで絵の具を練った世代から、本場で学んだ世代へ。日本の洋画は、そこから次の時代に入っていきます。
よくある質問
Q. 『鮭』の実物はどこで見られますか?
重要文化財の『鮭』は東京藝術大学が所蔵していて、大学美術館の展覧会などで公開されることがあります。常に展示されているわけではないので、公開予定は公式サイトで確認してください。
Q. 由一に油絵を教えたワーグマンは、どんな人ですか?
イギリスの絵入り新聞の特派員として幕末の日本に来た画家です。横浜に住みつき、日本人の弟子たちに西洋の絵を教えました。横浜で風刺漫画の雑誌『ジャパン・パンチ』を出していたことでも知られています。
Q. 高橋由一の作品をまとめて見られる場所はありますか?
香川県の金刀比羅宮にある高橋由一館で、奉納された作品を見ることができます。開館日などは事前に確認してください。
まとめ
- 高橋由一は1828年生まれ。侍の身分で西洋の石版画の「本物らしさ」に衝撃を受け、独学から油絵を始めた
- 『鮭』の縦長の画面は掛け軸に似ていて、題材は年の暮れの新巻鮭。日本の家と暮らしの中に油絵を置こうとした
- 『花魁』では理想化せずにモデルの顔を写し、モデル本人を泣かせたと伝えられる
- 美術館のない時代に、美術館の構想を立て、作品を金刀比羅宮に託した
縄で吊るされた一匹の鮭。あれは、ちょんまげの侍が、生涯かけて「見えるとおりに描く」ことに賭けた結果です。次に教科書や画集でこの絵を見たら、切り口ではなく、乾いたうろこの粉に目をやってください。
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