「美人画では娘にかなわない」と北斎は言った——葛飾応為『吉原格子先之図』の光と影

葛飾応為『吉原格子先之図』、太田記念美術館
葛飾応為『吉原格子先之図』、太田記念美術館

北斎の娘、と言われても名前が出てこない。それで普通です。

葛飾北斎は知っていても、その三女が絵師だったことまで知っている人は多くありません。名前は葛飾応為(おうい)。生まれた年も、亡くなった年もわかっていません。確かに彼女の作とされる絵は、ごくわずかしか残っていない。

それなのに、上の一枚を一度見た人は、なかなか忘れません。夜の遊郭を描いた江戸の絵なのに、まるで西洋の油絵のように、光と影で組み立てられているからです。

夫の絵を笑って、父の家に戻った娘

応為の本名は、お栄(えい)といいます。

若いころ、彼女は南沢等明という町絵師と結婚しました。ところが夫の絵の下手さを笑い、それがもとで離縁された、と伝えられています。明治になってまとめられた北斎の伝記に残る話です。真偽はともかく、彼女の腕前と気の強さを伝える逸話として、いまもよく引かれます。

戻った先は、父・北斎の家でした。

露木為一『北斎仮宅之図』。奥でこたつ布団にくるまって絵を描く北斎と、手前に座る応為
露木為一『北斎仮宅之図』。奥でこたつ布団にくるまって絵を描く北斎と、手前に座る応為

北斎の弟子が描いたこの絵を見てください。奥で布団にくるまり、筆を持っているのが晩年の北斎。手前で火鉢のそばに座っているのが応為です。部屋には道具や包みが散らばり、片づいている様子はありません。

親子は掃除も料理もほとんどせず、部屋が汚れると引っ越した、と伝えられます。北斎は生涯に90回以上も住まいを変えたといわれています。その引っ越しの多くに、応為はついて回りました。

「応為」という名前の由来としては、北斎が娘を「おーい」と呼んでいたから、という説がよく知られています。父のそばで絵を描き、父の仕事を手伝い、ときには代わりに筆を取った。北斎の晩年の作品には応為の手が入っているのではないか、と考える研究者もいます。女性向けの教養書の挿絵など、彼女の名前で出た仕事も少しずつ残っています。

その北斎が、娘についてこう言ったという話が残っています。美人画にかけては、自分もお栄にはかなわない。

90歳近くまで描き続けた天才に、そう言わせた娘の絵は、どんなものだったのか。

『吉原格子先之図』——提灯に隠した3つの署名

冒頭の絵に戻ります。

江戸の遊郭、吉原の夜。格子の向こうの明るい座敷に、着飾った遊女たちが並んでいる。格子のこちら側は暗い通りで、客の男たちが黒い影になって中をのぞき込んでいます。

遊女が格子の内側に並んで客を待つこの形は「張見世(はりみせ)」と呼ばれ、吉原の夜の名物でした。通りを歩く男たちは、格子越しに品定めをする。絵の右側では、明るい店先に大きな置き提灯が据えられ、その光が地面に丸い輪になって広がっています。

明かりは、座敷の灯と、店先の提灯と、通りを行く人が提げた提灯だけです。格子の影が、地面に縞模様になって落ちている。手前の人々は、顔も着物の柄もわからないほど暗く、ほとんどシルエットです。

浮世絵の多くは、影を描きません。物の形を輪郭線で囲み、色を平らに塗るのが基本です。応為は、そのやり方から大きく踏み出しました。光が当たるところだけを描き、当たらないところは闇に沈める。西洋の画家レンブラントになぞらえて語られることがあるのは、そのためです。

この絵にはもう一つ、仕掛けがあります。

画面のどこを探しても、署名らしいものが見当たらない。ところが、通りの人々が提げた提灯をよく見ると、「応」「為」「栄」の文字がそれぞれ書かれています。3つの提灯に、自分の名前を分けて隠したわけです。絵師が画面の隅に名前と印をはっきり入れるのが当たり前だった時代に、応為は名前を光の中に溶かし込みました。

東京・原宿の太田記念美術館が所蔵する、横40センチほどの小さな絵です。私はこの絵を見るとき、つい真っ先に提灯の文字を探してしまいます。見つけたときの、ちょっと得意な気分。暗がりに名前を忍ばせた本人も、見つけてもらうのを待っていたような気がします。

江戸の絵師は、なぜ影を描けたのか

では、応為はどこで光と影の描き方を覚えたのか。

はっきりした答えはありません。ただ、手がかりはあります。

江戸時代の日本は、オランダとの交易を長崎の出島で続けていました。オランダから届く銅版画や書物には、遠近法で奥行きを出し、陰影で立体を作る西洋の描き方が詰まっていました。江戸の絵師たちはそれを熱心に研究し、北斎もその一人でした。北斎の工房が、出島のオランダ商館の注文で、西洋風の陰影をつけた日本の風俗画を描いたことも知られています。

父の工房で、応為も同じ絵を見ていた可能性は高いと考えられています。

ただ、応為の絵は西洋画のまねではありません。油絵のような厚い塗りも、細かい陰影の積み重ねもない。日本の絵の具で、平らな色の面を使いながら、明かりの届く範囲だけを切り取っている。輸入された技法を、江戸の夜の光景に合わせて組み直したのが応為でした。

北斎の娘として生まれ、父の工房で世界を見た。そのことが、彼女の絵を同時代の誰とも違うものにしています。

『夜桜美人図』の星と、消えた晩年

葛飾応為『夜桜美人図』、メナード美術館
葛飾応為『夜桜美人図』、メナード美術館

応為の夜の絵を、もう一枚。

石灯籠の明かりのそばで、女性が短冊に筆を走らせています。背後には桜の花が闇に白く浮かび、夜空には小さな星がいくつも散っている。灯籠の窓の中では、炎がかすかに揺れています。

江戸の絵で、星空をこれほど細かく描いた例は多くありません。明かりの届くところと、届かないところ。応為はここでも、光の範囲だけで画面を組み立てています。女性の着物の柄も、灯籠に近い側だけがくっきり見え、遠い側は夜の色に溶けていく。描かれた女性については、江戸時代の女性俳人を描いたものだという見方もあり、短冊に向かうのは、桜の夜に一句をひねる姿だと考えられています。

1849年、北斎は数えで90歳の生涯を閉じました。

その後の応為の足取りは、はっきりしません。親戚の家に身を寄せた、旅に出た、など、いくつかの話が伝わるだけです。いつ、どこで亡くなったのかもわかっていません。

父の名声の陰で描き、署名さえ提灯の中に隠した絵師は、最後には自分の行方まで闇の中に置いていきました。残ったのは、ほんのひと握りの、光の絵だけです。

よくある質問

Q. 『吉原格子先之図』はいつでも見られますか?
東京・原宿の太田記念美術館が所蔵していますが、常に展示されているわけではありません。公開の時期は美術館の公式サイトで確認してください。

Q. 応為の作品は、ほかにどこにありますか?
『夜桜美人図』は愛知県のメナード美術館、三味線・琴・胡弓を合奏する女性たちを描いた『三曲合奏図』はアメリカのボストン美術館が所蔵しています。

まとめ

  • 葛飾応為は北斎の三女で、本名はお栄。生没年はわかっていない
  • 北斎のそばで描き続け、「美人画では娘にかなわない」と父に言わせたと伝えられる
  • 『吉原格子先之図』は光と影だけで夜の遊郭を描き、署名を3つの提灯に隠した
  • 『夜桜美人図』でも、灯籠の明かりと星空で夜を描いた
  • 北斎の死後、その行方は記録から消えている

『吉原格子先之図』を、画集かオンラインの画像で拡大して、3つの提灯を探してみてください。「応」「為」「栄」。全部見つけたとき、北斎の娘ではなく、一人の絵師としての応為が見えてきます。

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