『麗子微笑』の手には青い実——岸田劉生が娘を「かわいく」描かなかった理由

岸田劉生『麗子微笑(青果持テル)』1921年、東京国立博物館
岸田劉生『麗子微笑(青果持テル)』1921年、東京国立博物館

正直に言うと、初めて『麗子微笑』を見たとき、かわいいとは思いませんでした。

おかっぱの女の子が、横目で何かを見て、口の端だけで笑っている。顔は横に広く、目は細く、頬は赤い。子どもの肖像というより、古いお寺の片隅にいる何かに近い。少し、怖い。

同じように感じた人は、きっと多いはずです。

描いたのは、大正時代の洋画家・岸田劉生。モデルは、彼の実の娘の麗子です。父親が、自分の娘をこう描いた。そこには、はっきりした理由がありました。

『麗子微笑』のモデルは、7歳の娘

『麗子微笑』が描かれたのは1921年。麗子は7歳、数え年なら8歳でした。

手編みの毛糸の肩掛けを羽織り、手には青い果実を一つ持っている。正式な題は『麗子微笑(青果持テル)』。現在は東京国立博物館が所蔵し、国の重要文化財に指定されています。

劉生が麗子を描いたのは、この1枚だけではありません。

油彩、水彩、素描を合わせると、麗子をモデルにした作品は数十点にのぼるといわれます。4歳ごろから10代半ばまで、劉生は娘を描き続けました。美術の教科書で見た「麗子像」も、たいていはこのシリーズのどれかです。

一人の画家が、一人の子どもを、これほど長く描いた例はそう多くありません。

もう一度、冒頭の絵に戻ってみてください。顔の次に目に入るのは、肩掛けのはずです。

赤、黄、白、緑。毛糸の編み目が、一つずつ絵の具の粒で置かれています。顔の肌がなめらかに塗られているのに対して、肩掛けだけは絵の具が盛り上がり、さわればごつごつしそうなほどです。背景は、ほとんど黒に近い茶色一色。その暗がりから、赤い肩掛けと、少し黄みがかった顔だけが浮かび上がってきます。

そして、手元の青い実。何の実かは、題にも書かれていません。ただ「青果」とあるだけです。赤い服の中に、緑がぽつんと一つ。この小さな色が、画面全体の赤を引き締めています。

では、劉生は最初からこの「少し怖い」顔を描いていたのか。

最初の『麗子像』は、北方ルネサンスの肖像画だった

岸田劉生『麗子肖像(麗子五歳之像)』1918年、東京国立近代美術館
岸田劉生『麗子肖像(麗子五歳之像)』1918年、東京国立近代美術館

麗子を描いた最初の油彩が、上の『麗子肖像(麗子五歳之像)』です。1918年の作。

顔は正面からまっすぐこちらを見つめ、髪の毛は一本一本が見えるほど細かく描かれています。着物の柄、手に持った小さな花、肌のつや。どこにも手抜きがありません。

目を引くのは、背景のアーチです。

頭の上に半円の枠があり、その縁に沿って文字が書き込まれている。上の隅には「麗」「子」の字。この形は、15〜16世紀のドイツやオランダで描かれた肖像画、いわゆる北方ルネサンスの絵によく似ています。

劉生は若いころ、ゴッホやセザンヌなど、印象派のあとの画家たちに夢中になりました。ところが20代前半で方向を変え、デューラーやファン・エイクのような、細部まで描き込む古いヨーロッパ絵画に向かいます。目の前のものを、とことん写す。それが彼の答えでした。

5歳の麗子も、その目で描かれています。子どもらしい愛らしさより先に、そこに「在る」ことの重さが来る。

では、そこから3年後の『麗子微笑』は、なぜあの顔になったのか。

「デロリ」——劉生が東洋の古い絵に見つけたもの

劉生の興味は、やがて西洋から東洋へ移ります。

中国の宋や元の時代の絵、日本の初期の肉筆浮世絵。劉生はそれらを熱心に集め、見て、文章に書きました。そこで彼が繰り返し使ったのが、「デロリ」という言葉です。

上品でも洗練されてもいない。むしろ、どこか卑俗で、生々しく、少し気味が悪い。けれど、目が離せない。劉生は、東洋の古い絵が持つこの手触りを「デロリとした味」と呼びました。

『麗子微笑』の顔は、このデロリを狙って描かれています。

横に広い顔、細い目、口の端だけの笑い。現実の麗子をそのまま写したのではなく、古い仏画や人物画に通じる、少し人間離れした顔に寄せている。神秘的と言ってもいいし、不気味と言ってもいい。劉生にとっては、その両方が同時にあることが大事でした。

5歳の肖像と並べると、違いはすぐわかります。

5歳の麗子は、正面から、ほぼ見たままの顔で描かれていました。7歳の麗子は、顔を少し横に向け、目をそらし、口元だけで笑う。輪郭は丸くふくらみ、目と目の間は広くなっています。同じ子どもを、わずか3年で、ここまで違う顔に描いた。

変わったのは、娘の顔より、父親の目のほうでした。

寒山になった麗子

岸田劉生『寒山風麗子像』笠間日動美術館
岸田劉生『寒山風麗子像』笠間日動美術館

その行き着いた先の一つが、上の『寒山風麗子像』です。

寒山とは、中国・唐の時代の伝説的な僧のこと。ぼろをまとい、にたにたと笑う奇人として、昔から東洋の絵に描かれてきました。

劉生は、その寒山の姿に麗子を重ねました。墨で描かれた麗子は、大きな頭で、歯を見せて笑い、裸足で立っています。

ここまで来ると、もう「娘のかわいい肖像」ではありません。初めてこの絵を見た日、私はしばらく笑っていいのか迷いました。

けれど、何度か見ているうちに気づきます。劉生は、娘をからかっていたのではない。自分が一番美しいと信じる東洋の古い絵の世界に、娘を連れていこうとしていた。

38歳で世を去った岸田劉生と、画家になった麗子

岸田劉生『自画像』1914年
岸田劉生『自画像』1914年

岸田劉生は1891年、東京・銀座に生まれました。父は、新聞記者として活躍し、目薬の販売でも成功した岸田吟香です。

10代で洋画を学び始め、20代前半には自画像を何枚も描いています。上の自画像は、麗子が生まれた1914年のもの。友人を次々にモデルにしたので、「首狩り劉生」とあだ名されたといいます。

1917年、体調を崩した劉生は、療養のため家族と神奈川の海辺の町・鵠沼に移ります。外へ写生に出られない日が続き、家の中にいる娘が、いちばん身近なモデルになりました。麗子像の多くは、この鵠沼の家で生まれています。

1923年の関東大震災で家が被害を受けると、一家は京都へ移りました。そこで劉生は古美術にのめり込み、のちに鎌倉へ移ります。1929年、旅先の山口県で亡くなりました。38歳でした。

麗子は、のちに自分も画家になりました。父の思い出をつづった本も残しています。何十回も父の前に座った少女は、筆を持つ側に回ったのです。

よくある質問

Q. 『麗子微笑』はどこで見られますか?
東京国立博物館の所蔵です。いつも展示されているわけではないので、見に行く前に公式サイトで展示予定を確認してください。

Q. 岸田劉生の作品は、ほかにどんなものが有名ですか?
東京・代々木の坂道を描いた『道路と土手と塀(切通之写生)』がよく知られています。赤土の坂と、空へ向かって伸びる白い塀を、細部まで描き込んだ風景画です。

まとめ

  • 『麗子微笑(青果持テル)』は1921年の作。モデルは岸田劉生の娘・麗子で、重要文化財に指定されている
  • 劉生は4歳ごろから10代半ばまで、麗子を数十点にわたって描き続けた
  • 初期の麗子像は、デューラーなど北方ルネサンスの細密な写実で描かれた
  • 『麗子微笑』の少し不気味な顔は、東洋の古い絵の生々しさ「デロリ」を狙ったもの

かわいく描かなかったのは、愛情が足りなかったからではありません。劉生がいちばん美しいと思うやり方で、娘を描いた。その答えが、あの少し怖い笑顔です。

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