信長が謙信に贈った屏風に、約2500人——狩野永徳『洛中洛外図屏風』と、天下人に仕えた絵師の48年

狩野永徳『唐獅子図屏風』安土桃山時代、皇居三の丸尚蔵館
狩野永徳『唐獅子図屏風』安土桃山時代、皇居三の丸尚蔵館

約2500人。

一双の屏風の中に描き込まれた、人の数です。公家、武士、僧侶、商人、物売り、子ども、祭りの見物客。京都の町を雲の切れ間からのぞき込むように描いた国宝『洛中洛外図屏風』(上杉本)には、それだけの人々が、それぞれ違う仕事をしながら暮らしています。

描いたのは、狩野永徳(かのう・えいとく)。織田信長と豊臣秀吉という、二人の天下人に仕えた絵師です。

ところが、教科書で見る永徳の代表作は、この細密な屏風ではなく、上の『唐獅子図屏風』のほうかもしれません。金色の地に、巨大な獅子が2頭、のし歩いている。同じ絵師が、米粒のような人々と、画面からはみ出しそうな獅子の両方を描いた。この落差の中に、永徳という人の48年が詰まっています。

約2500人がひしめく京都——『洛中洛外図屏風』は20代の仕事

「洛中洛外」とは、京都の町の中と、その周辺のこと。

『洛中洛外図屏風』は、6枚のパネルをつないだ屏風が左右で一対になった、六曲一双の大作です。広げると、横幅は2つ合わせて7メートルを超えます。

右の屏風の中央には、祇園祭の山鉾巡行が描かれています。背の高い鉾が、大勢の男たちに引かれて通りを進み、見物人が軒先からのぞいている。町家の中では、職人が仕事をし、子どもが遊んでいる。左の屏風には、将軍の屋敷や有力な武家の館が、金の雲のあいだに見え隠れします。

『洛中洛外図屏風』(上杉本)右隻。中央付近に祇園祭の山鉾が見える。米沢市上杉博物館
『洛中洛外図屏風』(上杉本)右隻。中央付近に祇園祭の山鉾が見える。米沢市上杉博物館

画面の中には、季節も流れています。右の屏風から左の屏風へ、春の花見、夏の祭り、秋の紅葉、冬の雪景色へと、1年がめぐるように描き分けられている。一双を端から端まで眺めると、京都の町の1年を、空から見下ろしたことになります。

細部を探すのも楽しみの一つです。武家の館の庭先で、男たちが鶏を戦わせる闘鶏に熱中している。通りでは荷を担いだ人や、着飾った行列が行き交っている。一人一人の顔は小指の先ほどしかないのに、何をしているかがちゃんとわかります。

これを描いたとき、永徳はまだ20代の前半だったと考えられています。

狩野家は、室町幕府に仕えた絵師の一族でした。永徳の祖父の元信が、狩野派を大きな絵師集団に育て上げた人物です。永徳は幼いころからその祖父に手ほどきを受け、若くして一族の跡継ぎと目されていました。

右隻の一部、祇園祭の山鉾巡行。鉾の上にも、通りにも、見物人がびっしりと描かれている
右隻の一部、祇園祭の山鉾巡行。鉾の上にも、通りにも、見物人がびっしりと描かれている

将軍の注文が、信長の贈り物になるまで

この屏風には、少し込み入った来歴があります。

もともとは、室町幕府の13代将軍、足利義輝の注文で描かれたものと考えられています。ところが義輝は、屏風の完成を待たずに、京都の御所を三好氏の軍勢に襲われ、命を落としてしまいました。

注文主を失った屏風は、しばらく狩野家の手元に残ります。それを手に入れたのが、のちに京都をおさえた織田信長でした。1574年、信長はこの屏風を、越後の上杉謙信に贈ったと伝えられます。

当時の信長にとって、北の謙信を敵に回すことは避けたかった。京都の繁栄を描いた豪華な屏風は、自分が都を手にしていることを示す贈り物でもありました。

以来、屏風は上杉家に伝えられ、今は山形県の米沢市上杉博物館が所蔵しています。「上杉本」と呼ばれるのはそのためです。

小さな筆では間に合わない——「大画」の発明

信長に認められた永徳には、とてつもない仕事が回ってきます。

城です。信長が琵琶湖のほとりに築いた安土城。天守の内部は、何層にもわたる部屋の襖や壁が、すべて絵で埋め尽くされていたと伝えられます。秀吉の時代になると、大坂城、さらに京都の聚楽第。永徳と狩野派の絵師たちは、天下人の城の内装を、次々に請け負っていきました。

部屋がいくつもあり、襖は何百枚もある。『洛中洛外図屏風』のような細密な描き方では、とても間に合いません。

そこで永徳が生み出したのが、のちに「大画(たいが)」と呼ばれる描き方です。太い筆で、木の幹や岩を画面いっぱいに、一気に描く。細部にこだわるより、遠くから見て迫ってくる勢いを優先する。江戸時代の狩野派の記録には、その画風を「怪々奇々」と評した言葉が残っています。

冒頭の『唐獅子図屏風』は、その代表です。高さは2メートルを超え、獅子のたてがみは渦を巻き、太い脚が金の地を踏みしめる。小さな部屋に置く絵ではありません。広間の奥で、入ってきた客を威圧するための絵です。

私はこの屏風を初めて見たとき、獅子の顔より先に、足の爪の太さに目を奪われました。踏まれたら逃げられない、と思わせる爪です。

安土城も、大坂城も、燃えてしまった

ところが、永徳の仕事の大半は、今は残っていません。

1582年、本能寺の変で信長が倒れると、まもなく安土城は焼け落ちました。永徳の障壁画も、城とともに失われます。秀吉の大坂城は、のちの大坂の陣で落城し、聚楽第は秀吉自身の手で取り壊されました。

天下人の城を飾るという、絵師として最高の仕事。それが、天下人の運命と一緒に消えていったわけです。

現在、永徳の作品と確実にいえるものは、10点ほどしかないとされます。そのうち、京都・大徳寺の聚光院の襖絵、『洛中洛外図屏風』、『唐獅子図屏風』、そして最晩年の『檜図屏風』の4件が国宝に指定されています。燃え残った、ほんのひとにぎりです。

48歳、仕事の途中で——最後の『檜図屏風』

狩野永徳『檜図屏風』1590年、東京国立博物館
狩野永徳『檜図屏風』1590年、東京国立博物館

1590年、永徳は京都の東福寺の天井画を手がけている最中に病に倒れ、48歳で亡くなりました。休む間もなく大仕事を引き受け続けたことによる、過労だったともいわれます。

その最晩年の作とされるのが、『檜図屏風』です。

ねじれながら横へ横へと伸びる檜の幹が、8枚の画面を突き抜けていく。枝は画面の外まで続いていきそうで、どこにも収まりきらない。『唐獅子図屏風』と同じく、太い筆の勢いで描かれていますが、獅子の威圧感とは違う、どこか苦しげなうねりがあります。

同じ頃、能登から京都に出てきた長谷川等伯が、狩野派の仕事に食い込もうとしていました。永徳が亡くなったのは、まさにその競争のさなかです。

よくある質問

Q. 『洛中洛外図屏風』(上杉本)は、いつでも見られますか?
米沢市上杉博物館の所蔵で、本物の展示は期間が限られています。展示時期は公式サイトで確認してください。精巧な複製が展示されている期間もあります。

Q. 狩野派とは何ですか?
室町時代の狩野正信から始まり、江戸時代の終わりまで約400年続いた絵師の一族と、その弟子たちの集団です。幕府や大名の御用を務め、日本の絵画の主流であり続けました。永徳は、その歴史の中でもっとも名高い絵師の一人です。

まとめ

  • 『洛中洛外図屏風』(上杉本)には約2500人が描かれ、永徳が20代前半で手がけたと考えられている
  • 将軍足利義輝の注文で描かれ、のちに信長が上杉謙信に贈った
  • 天下人の城を飾るため、太い筆で一気に描く「大画」の様式を生み出した
  • 安土城などの大作は焼失し、確実な作品は10点ほどしか残っていない
  • 1590年、48歳で仕事の途中に亡くなった

米粒のような2500人と、画面を踏み破りそうな2頭の獅子。どちらも、時代の頂点に立つ人のために描かれた絵です。永徳の屏風は、注文した天下人の顔を、いちばん正直に映しています。

関連アイテム

この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。