レオナルド『最後の晩餐』はなぜ描き終えた直後から剥がれ始めたのか——壁の名画を襲った500年

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495〜1498年頃、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂。画面下中央のアーチ形の欠けは、のちに壁に開けられた扉の跡
レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』1495〜1498年頃、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂。画面下中央のアーチ形の欠けは、のちに壁に開けられた扉の跡

『最後の晩餐』と聞けば、横長の食卓に13人が並ぶあの構図が、誰の頭にもすぐ浮かびます。

では、その絵の表面が、描き終わってわずか20年ほどで剥がれ始めていたことはご存じでしょうか。

上の画像をよく見ると、壁のあちこちに細かな染みや欠けが散っています。古いから傷んだ、というだけではありません。この絵は、生まれた瞬間から「壊れやすい絵」として描かれていました。

原因をつくったのは、ほかでもないレオナルド本人です。

『最後の晩餐』はフレスコ画ではない

壁画といえば、ふつうはフレスコ画を指します。

フレスコは、塗ったばかりの湿った漆喰(しっくい)に、水で溶いた顔料を染み込ませる技法です。漆喰が乾くと顔料が壁と一体になり、何百年ももつ。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画も、この方法で描かれています。

ただし、大きな弱点が一つあります。漆喰が乾くまでの数時間で、その日の分を描き切らなければなりません。描き直しもききません。

レオナルドには、これが耐えられませんでした。

彼は、乾いた壁の上に下地を塗り、卵などで溶いた絵の具(テンペラ)に油を混ぜて描くという、自分なりの方法を選びます。これなら好きなだけ時間をかけられ、色を重ね、何度でも手を入れられる。陰影を少しずつぼかしていく彼の描き方には、こちらのほうが合っていました。

代わりに、絵の具は壁に染み込まず、表面に「乗っている」だけになった。

湿気の多い食堂の壁で、薄い絵の具の層は少しずつ浮き、はがれていきます。完成から20年ほど後の1517年には、ミラノを訪れた旅行者が、すでに傷み始めていると書き留めました。16世紀の半ばには、画家で伝記作家のヴァザーリが「染みのようにしか見えない」という趣旨の言葉を書き残したと伝えられます。

何時間も眺めて、ひと筆だけ足して帰る

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の古い写真。右奥の丸屋根の下に続く建物に、修道院の食堂がある
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の古い写真。右奥の丸屋根の下に続く建物に、修道院の食堂がある

注文主は、ミラノを治めていたルドヴィーコ・スフォルツァです。場所は、彼が肩入れしたドミニコ会のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院。その食堂の、幅およそ9メートルの壁でした。

修道士たちは毎日、この絵の下で食事をとることになります。

制作のようすについては、当時その修道院にいた若者の証言が残っています。レオナルドは朝から晩まで足場の上で描き続ける日もあれば、何日も筆を取らない日もあった。ふらりとやって来て、絵の前で何時間も腕を組んで眺め、ひと筆か二筆だけ足して帰ることもあったといいます。

修道院長はしびれを切らし、ルドヴィーコに苦情を言いました。

ヴァザーリの伝記によれば、呼び出されたレオナルドは、ユダの顔のモデルがなかなか見つからないのだと説明し、見つからなければ修道院長の顔を使ってもいい、と言ったそうです。話はそこで収まったといわれます。

どこまで本当かはわかりません。ただ、レオナルドが「急いで描く」ことを何より嫌った人だったのは確かです。そして、その遅さを許す技法を選んだことが、のちの災難の始まりになりました。

13人の誰が、どこで驚いているのか

レオナルドに帰属する、ユダ(左)とペテロ(右)の頭部の習作
レオナルドに帰属する、ユダ(左)とペテロ(右)の頭部の習作

絵が描いているのは、キリストが「あなたがたのうちの一人が、私を裏切る」と告げた直後の一瞬です。

12人の弟子は、3人ずつ4つのグループに分かれています。身を乗り出す者、両手を広げる者、立ち上がる者。静かな食卓に、言葉ひとつで波が立った瞬間が、左右に広がっていきます。

見てほしいポイントを3つだけ挙げます。

  • キリストの頭:部屋の天井や壁の線をたどっていくと、すべてがキリストの右のこめかみあたりの一点に集まります。その位置には、レオナルドが糸を張るために打ったとされる釘の穴が見つかっています
  • ユダ:キリストの右側(向かって左)で、体をのけぞらせ、影の中にいる男。手には金の入った袋を握っています。それまでの『最後の晩餐』では、ユダだけ食卓の手前側に一人で座らせるのが普通でした。レオナルドは、彼をほかの弟子と同じ側に並べています
  • ペテロ:ユダのすぐ後ろで、ナイフを握ったまま身を乗り出している白髪の男。上の習作は、この2人の顔を描いたものです

裏切り者を「離して座らせない」。

その一点で、この食卓の緊張は一気に高まります。私は初めて全体図を見たとき、ユダがどこにいるのかすぐにはわかりませんでした。わからないこと自体が、この絵の仕掛けなのだと思います。

扉、馬小屋、そして爆弾——壁が受けた仕打ち

修復前の『最後の晩餐』。全体が暗く、表面の剥落が目立つ
修復前の『最後の晩餐』。全体が暗く、表面の剥落が目立つ

剥がれやすい絵には、人間の側からも次々に災難が降りかかりました。

1652年、食堂の壁に扉が開けられます。ちょうど絵の下の中央、キリストの足があった部分です。冒頭の画像の下にあるアーチ形の欠けがそれで、キリストの足は今も失われたままです。

18世紀末には、ミラノに入ったナポレオン軍が食堂を馬小屋や倉庫として使ったと伝えられます。

その後も、傷みを隠すために何度も上から絵の具が塗り重ねられました。善意の修復が、かえってレオナルドの筆を覆い隠していきました。

最大の危機は1943年8月でした。

第二次世界大戦中の空襲で、食堂の屋根と壁の一部が崩れ落ちます。絵の壁は、あらかじめ積み上げてあった土嚢と足場に守られて、かろうじて残りました。数年のあいだ、屋根のないまま雨風にさらされたともいわれます。

22年がかりの修復で、何が戻ってきたのか

1978年、大規模な修復が始まりました。

修復家たちは顕微鏡をのぞきながら、何百年分の汚れと、後の時代に塗られた絵の具を、少しずつ取り除いていきます。終わったのは1999年。絵を描くのにかかった時間の何倍もの年月でした。

上の修復前の画像と、冒頭の修復後の画像を見比べてみてください。

暗く沈んでいた画面に、青や赤の衣の色、窓の外の明るい空が戻っています。一方で、レオナルド自身の絵の具が残っていない部分は、無理に描き足さず、薄い色でそっと埋めるだけにとどめました。だから修復後の画面には、今も欠けた跡が見えます。

この方針には、当時から賛否がありました。

「元の絵がこんなに少ししか残っていないなら、もうレオナルドの絵とは言えない」という声もあった。それでも、後の人の手を取り除き、残っている本物だけを見せるという選択が取られました。

今、食堂は温度と湿度が管理され、見学は予約制で、少人数ずつ短い時間に区切られています。人の吐く息さえ、この壁には負担になるからです。予約の方法や見学時間は変わることがあるので、訪れる前に公式サイトで確認してください。

よくある質問

Q. 『最後の晩餐』はどこで見られますか?
イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の旧食堂にあります。壁に直接描かれているため、ほかの場所へ貸し出されることはありません。見学は事前予約が基本です。

Q. レオナルドはほかにも技法で失敗したことがありますか?
フィレンツェの政庁に描こうとした壁画『アンギアーリの戦い』でも、新しい技法を試して絵の具がうまく定着しなかったといわれます。この壁画は完成せず、現在は模写などで構図が伝わるだけです。

まとめ

  • 『最後の晩餐』はフレスコ画ではなく、乾いた壁にテンペラと油で描かれた
  • 時間をかけて描き直せる代わりに、絵の具が壁に定着せず、早くから剥がれ始めた
  • 扉の設置、軍の駐留、塗り重ね、1943年の空襲と、人の手による災難も重なった
  • 1978年から1999年の修復で、後世の絵の具が取り除かれ、本来の色が戻った

あの絵の欠けや染みは、ただの傷ではありません。急がずに描くことを選んだ画家と、その一枚を500年かけて守ってきた人々の、両方の跡です。

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